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高島宗一郎福岡市長の支那から研修生年間800人受け入れとか、海水淡水化技術を公開するなどのニュースに血圧が上がる思いをしている人から見ると、お花畑と言われそうですが、今日のエントリーは天皇の遺伝子、つまり出自です。『天皇の遺伝子』は、進化生物学者氏の著書名ですが、『天皇の出自』と題するのには、恐れ多いので『天皇の遺伝子』としました。(同じかも)
『天皇の遺伝子』を書くに至ったのは、最近読んだ中田力著『日本の古代史を科学する』に、ちょっと気になる天皇の出自が書かれていたからです。
私は、日本人の形成に興味を持って調べています。なので、書店にいっても日本の古代が書かれた本の棚に目が移ります。しかし興味をそそられる背表紙の題とは裏腹に、トンデモ類ばかりが並んでいます。それにしても、朝鮮人やサヨクが書いた本が多いこと。
最近は本を買うのにも、サヨクか朝鮮人が書いたものかを確かめることにしています。何故なら、彼らが書いたものは、面白くないのです。僅かに残った遺跡や、DNAや言語、民族の文化から古代人の営みを推論するのは、楽しい遊びです。
しかしサヨクが書くと、いきなりサヨク価値観からのお説教となります。(そのお説教が、どういうものか『「日本人」はどこから来たのか 』を見て想像して下さい)
又、朝鮮人が書く本も面白く有りません。現在世界に喧伝している剣道・茶道などと同様、日本の文化はすべて半島から来たものばかりと言っているだけで、学術的価値はゼロ、推論を刺激をするものも有りません。
それに対して、『日本の古代史を科学する』を書いた中田力氏は、MRIの世界的権威者で複雑系脳科学でも世界的権威者だそうです。従って、魏志倭人伝等を複雑系科学から読み解いて、新たな見解をこの本にまとめています。
それによると、奴の国は佐賀平野に位置していると想定して、従来の福岡市としていたのと違います。確かに魏志倭人伝に書かれている方位に従えば、奴の国は佐賀平野に位置し、吉野ヶ里遺跡が有った事からも、納得できます。それから水行過程は有明海を陸沿いに行くことであり、そこから陸行して行く着く先は宮崎平野になります。
結果、中田氏の推論では、邪馬台国は宮崎県・日向の国に有ることになります。水行10日や陸行1ヶ月の時間は、距離ではなく%として、方位は正しいとするとそうなるのかも知れません。
確かに、神話に書かれている天孫降臨の地は日向の国で、また宮崎県は神社が多いことも有名です。しかし宮崎県は、奈良県・大和の国のように大型の古墳が多数ある訳では有りません。邪馬台国が金印を貰ったのは、印度や大月氏のように大国であることが認めれらたからです。
この点、蔵琢也氏は、宮崎県は平野部が少なく、大人口を養うのに不利だとしています。そこで中田氏は、小国にも関わらず、魏が邪馬台国に金印を与えたのは、邪馬台国を治める者の出自が高貴な出自だったからではないかと推測します。
日本人の中には、O2bのY遺伝子を持つ男性が多数存在します。このO2bタイプは長江文明の遺児のタイプと思われています。長江文明は黄河流域の牧畜民=漢族に滅ばされ、かなりの人間が日本列島や朝鮮半島南部に逃れたと思われます。これがボートピープルの第一波です。
日本列島では、稲作は縄文時代から始まっていますが、それを伝えたのも長江から逃れた人々だと思われます。一方大陸に残った、長江人は稲作技術を買われ、漢族に支配下に置かれます。それが呉の国や越の国等です。百済がそうで有ったように、呉も越も、支配者と被支配者が違う民族で有ったことが想像されます。
呉の国を治めた太伯、虞仲は、周の皇帝の長子、次子です。二人は末弟の季歴に後継を譲るため、呉の国の民の風習である刺青を全身にしたとの伝説が残っています。刺青は蛮族の証と言われていたそうですが、別の見方をすると、刺青をしてまで被支配階級に理解を示したのは、被支配階級である長江人の文化が高かったから、とも読めます。
その後、呉は隆盛を誇りますが、越に滅ぼされます。支那の興亡の歴史は虐殺の歴史でもあります。当然多くの人間が、先を争って逃げ出した筈です。これがボートピープルの第二波です。呉の国は、日本とゆかりが深く、庶民の技術は高かったようで、『呉の国の刀は優秀で、倭鍛冶、韓鍛冶が挑戦したが匹敵するものが出来なかった』との記録もあります。その後日本は日本刀を開発しますが、日本刀の祖は呉の刀剣なのでしょう。
そして高貴な出自と言うのが、ボートピープルの中にいた周の皇帝の血を引く呉の貴族であり、邪馬台国には、周の皇帝の血を引くものがいたから金印を与えられた、つまり天皇家は周の皇帝の血をひいている、と言うのが中田力氏の説です。
果たしてそうでしょうか。私はまず、言語と神話の観点から見て違うと思います。日本語は孤語言語と言われています。近いとされる朝鮮語とも8000年以上離れていると言われています。現在の日本語は縄文時代から伝わっているものです。中田氏の言うように、高度な文化を持つ集団が、縄文人を追いやって邪馬台国を築き、その後の日本に発展したなら、日本語は長江人が使っていた言語に近いものになっていた筈です。
逃れた長江人が作ったと思われる国の一つにタイがあります。タイの男性のY遺伝子の殆どはO2aなので、日本人のO2bのタイプとは多少違いますが、かなり近いタイプです。呉越の時代では、支那の南部はタイ語に近い言葉が話されていたの説もありますので、長江人がその後の日本を作ったなら、日本語はタイ語とかなりの共通性がなくてはなりませんが、そうでは有りません。
言語こそ文化の元です。言語から見れば、大陸から渡ってきた人は、多くの文化を伝えたが、先住民である縄文人に飲み込まれたと言わざる得ません。恐らく、縄文人が三々五々渡ってくる渡来人を受け入れ、渡来人と急速に融和したと思われます。
それは、縄文人の男性のY遺伝子のタイプと言われているD2タイプが、現在、30から40%の多数派を占めていることからも窺がえます。縄文人は縄文末期の寒冷化により数万人に激減したと言われています。それが長江人がもたらした稲作で救われたのです。稲作も数十年で名古屋あたりまで北上しています。これも定住生活が長く、物作りに長けた縄文人なので、技術伝承も容易だったのでしょう。
後、中田氏の説が違うと思うのは、神話です。若し呉の貴族が邪馬台国を築く、若しくは邪馬台国の長に祭り上げられて、それで金印を与えられていたのなら、古事記や日本書紀に誇らしげにその事が書かれている筈です。
呉の国の伝説は支那にありますが、呉越同舟の言葉があるように、史実に近い形で残っています。それは記憶が新しいからです。それなら当然、呉の国を脱出してきた人々の話は史実に近い形で神話の中に残っているはずですが、なにもありません。天の岩舟の話は有りますが、神が船で渡って来た記述も無いのです。
古事記の初めに有るのは、天地未だ別れていない時に、次々と現れて消えてゆく不思議な神達の描写です。そして、イザナギ命、イザナミ尊にまつわる、火山の描写としか思われない火の神の多さです。これは大陸とは関係なく、神話の形成時期が古い事を意味します。
そう考えると、天皇の出自は、D2タイプの遺伝子を持つ縄文系ではないかと思わざる得ません。勿論、先住民も渡来人も融和した社会の中から、優れた長が選ばれたのだと考えれば、天皇の出自が渡来系の可能性も否定できません。しかし中田氏が言うような、渡来系が縄文系を追いやったことは無いと思います。当然、騎馬民族が天皇家の先祖などの話は、荒唐無稽以外何ものでもないでしょう。
中田力は、線形科学しか知らない人文系科学者が現実とは掛け離れた解を出しているが、複雑系科学を応用すれば解けると言っていますが、氏の解も首を傾げたくなるのが一杯あります。
その一つが、徐福伝説です。徐福が始皇帝を欺き、3千人の技術者と五穀の種を持って日本に旅立った目的は、徐福が姫姓の再興の為に、日本にいると思われる姫姓の人間を迎える為と、中田氏は考えているようです。
そして中田氏の説がトンデモだと思われるのは、『徐福が連れて行った貴族の臣下に、チベット族である羌族が多く含まれており、日本にDタイプのY遺伝子を持つ男性が多いのはその為である』との説です。
そもそも、Dタイプと言っても、チベット族のY遺伝子のタイプはD1かD3タイプで、日本人のD2タイプとは違い、D1・D3タイプは日本列島にいません。D2タイプは、アイヌや琉球人の方が多く存在しているので、彼らを徐福が連れて行った子孫とすると説明が付かなくなります。
又、あいまいですが、大国主命が韓半島からの養子であり、それは邪馬台国と同様、高貴な血を持つ博多の奴の国に対抗するため、半島から養子を迎えたというのが中田氏の考えです。
しかし新羅の前身は辰韓。辰韓は秦の労役から逃亡してきた秦人であり、馬韓が地を分け与えて出来た国です。しかも王族は馬韓人だった国です。半島の三韓時代、馬韓も辰韓も弁韓も金印処か銅印も貰えず、王も名乗れず、陶印程度しか貰っていないような国々です。そのような前身を持つ新羅に、とても高貴な血が有る訳がありません。
中田力氏は、大上段に複雑系科学から『日本の古代史を科学する』書いたとしていますが、全てとは言いませんがトンデモ本に加えたくなるような内容です。
お勧め:『天皇の遺伝子』、『Y染色体からみた日本人』
後書き。
太伯、虞仲の刺青の話を読むと、こういう領主と領民の関係が続けば、支那にも封建時代の経験が残り、その後の支那の国民意識も変わったものと思われます。しかし支那では戦国時代から中央集権にしか移行しなかった。それは日本のような天皇の存在が無かったからです。封建時代があったヨーロッパでは、天皇はいなかったが、ローマ法王がいました。結局の処、支那では覇者が全てを支配する中央集権国家にならざる得なかったのです。そして、領民・領主の関係は存在せず、中央だけ見て民を食い物にする知事等の地方役人と、一方的に食い物にされる民の関係しか生まれなかったのです。
以前にも書いたが、東大生に『千人の人を助けると1人が犠牲になり、1人を助けると千人が犠牲になる事故が起きた、君が為政者ならどうするか』と聞くと、殆どの学生はいとも簡単に、1人を犠牲にして千人を助ける、と答えるそうである。百人対千人と設問を変えるとようやく事態の深刻さを理解すると言う。
これとまったく同じ設問を中学生の時に考え付き、『君が首相ならならどうする』と同級生に聞いて回ったことがある。中学生の時の私の解答は、『何もしてはいけない』であった。そうだろう、『首相だろうと他人の命を奪う権利など誰も持っていない。全員が死んだとしても、それは自然の摂理ではないか』と同級生に説いた記憶がある。
東大生について遺憾に思ったのは、彼等は将来人の上に立つ人間であると自他共に認めており、自負心も有るように見受けられるが、処が中学生でも考え付く設問を考えていなかったからだ。ある者は、首相、大臣、官僚、首長、上級警察官、等々になるだろう。だが、彼等が上に立つ者についての決断する勇気や、決断した後の責任について、何も考えていなかったとしても、そのような事態は必ずやってくる。
中学生だったときの私の解答は『人を助けるのに、誰かを犠牲にしなければならないのなら、何もしてはいけない』であったが、では、『何もしない人間が何故、人の上に立つのだ』、『決断する勇気も責任を取る覚悟も無い人間が、何故そのような職業につくのだ』と聞かれたら、答えられるだろうか。
軍人が身を挺して国土を守る戦闘行為は、まさに人を助ける為に何人かを犠牲にしなけれならない事態である。当然、軍隊が有る国のトップは、その決断を下す事が迫られる。戦争が無くても日本は災害の多い国である。実際日本では、何人かを助けると何人かを犠牲にしなけれならな事態が起き、誰かの決断を待っていた事が有ったのである。
その一つの例が、阪神淡路大震災の時の首相村山富市の対応である。
阪神淡路大震災では地震と同時に火災が起きたが、上水道が断水していた為、地上からの消火活動が出来なかった。空からの消火も検討されたが、水による圧力で建物が破壊され、下にいる人間にも被害が及ぶ可能性があるとの話があり、誰も決断を下さない為に火災は放置され、一日中燃えるに任せた。その為に、恐らく倒壊した家屋の中で逃げらずに焼け死んだ人間が、かなりいた筈である。(注1)
阪神淡路大震災は、まさしく誰かが決断して、何人かの犠牲を払ってでも類焼を食い止め、多くの人が焼け死ぬのを防がなければならない事態であった。しかし此の村山富市と言う男、何もしなかった。そのくせ定例勉強会等には出席しているが、その他の時間は阿房宮の火事でも眺めているかのように、一日TVを見て過ごしていたのだ。これは決断するとか、上に立つ者の覚悟以前の問題である。
又、原発事故の時に、当時経済相の海江田万里が権限が無いにも『速やかにやらなければ処分する』と消防隊員を恫喝した行為も、何人かを助ける為に何人かを犠牲にする命令であった。此の海江田万里も、恐らく消防隊員に犠牲者が出ても責任を取る覚悟等、無かったであろう。
しかし、首相であろうと大臣であろうと他人の命を奪う権利は無い。だが何もしなければ首相として又大臣としての責務が果たせぬ。ではどうすべきか。それには日本的解決法があった。
それは腹を切ることである。日本では、古来から責任を取ると言う事は腹を切ることであり、腹を切る事で失敗も許される文化があった。
封建時代、日本を訪れた西欧人は、法が厳格に守られ犯罪も少ないことに驚く。又、庶民が支配階級の武士を尊敬している事も指摘する。理由として考えられるのは、支配階級の武士が常に死の覚悟をしていた事を庶民は知っていたからと思われる。
例えば幕末、日本は国後島を訪れたロシア人艦長ゴロウニン以下8人を捕まえ捕虜としたが、その後ゴロウニン達は脱走を企てるが捕まえられる。その時奉行は、以前と変わらず晴れやかな態度で接し、『その方達が逃げおおせれば、奉行以下の数人の役人が命を捨てねばならないことを存じていたか』と尋ねる。奉行は、何時でも腹を切る覚悟の上、職務を行っていたのである。
武士達が横柄であろうと、常に死を覚悟して職務を行っていたことを知れば、その心は庶民にも伝わる。法も守るようになる。
幕末で、実際に切腹した幕府の官僚に川路聖謨がいる。川路聖謨はロシアの使節プチャーチンと交渉にあった人間である。ロシア側は彼の知性に驚かされ、彼の洒脱でユーモア精神に富んでいる人柄に魅了された。彼が切腹したのは責任を取った為ではない。しかし彼の切腹死により、彼が常に命がけで職務を行っていた事が分かった。
川路聖謨は有能な官僚であった。彼が有能であったのは知性の為だけでは無い。常に従容として腹を切れる程の勇気有ったからこそ、知性が発揮できたのである。逆に勇気が無い人間は、幾ら知性が有ったとしても能力を発揮する事はできない。臆病者は無能ともいえる。
明治以降では、切腹死した人間に乃木希典がいる。彼は切腹に先立ち正装し、十文字に割腹した後、外した軍服のシャツのボタンを締め、ズボンを上げ、軍刀で喉を突くことで絶命した。真に壮烈な最期である。
遺書には連隊旗を奪われたことを償うための死と述べられているが、この壮絶な死にざまを見れば、連隊旗を奪われた責任を追及する者はいないであろう。旅順攻撃の拙さや、多数の死傷者を出した責任を追及する者もいたが、切腹により全て帳消しになった。
乃木希典の切腹を時代錯誤とか、狂っているとか言う者がいる。これは西欧かぶれで日本文化を解せない人間か、自分が出来ない事への嫉妬した卑怯者の言葉である。
有能な人間とて失敗はあり得る。失敗を恐れては何も出来ない。日本は腹を切る事で失敗も許される文化なのである。それは自分の死を克服する勇気を持つ人間こそ、大事をなし得ることが分かっていたからである。
千人の人を助けると1人が犠牲になり、1人を助けると千人が犠牲になる事故が起きた、君が為政者ならどうしますか。
後書き、
切腹はグロテスクである。しかし昔の武士は死を克服する以上の勇気を示すため、切腹を選んだ。明治以降、軍人以外で切腹する者はいなくなった。それと同時に政治家や役人で死を意識してまで職務を行おうとする精神も薄れていった。政治家や役人の価値観から勇気が失われていった。
政治家や役人が、命をかけて職務を行わなくなってきたのだ。当然勇気の無い人間は自己犠牲等しない。勇気が無い人間は、全てが無い人間なのだ。もう肩書きだけの人間に騙されるべきではないだろう。
人の上に立つ人間の選択基準は、まず勇敢であることを一番に上げるべきである。当然な事ながら、もし運悪く自分が人の上に立つ立場になったら、やはり腹を切る覚悟でその職務をまっとうしなければならないだろう。それが日本の伝統なのだ。
ヘリコプターCH47
注1、森林火災では空中から消火するのが普通である。地上に消火活動をする人間がいても実施されている。『森林火災で使用されているヘリコプターCH47が3機あれば、阪神淡路大震災の火災を1%に激減できた』との報告もある。
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