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日本の文化を言うのなら、まず武士道、武士(もののふ)文化、侍文化を言わなくてはならないだろう。
その前に、10月25日の産経新聞に面白い記事が載ってた。ホワイトハウスで行われた李明博大統領に対する晩餐会の際、メニューに日本料理が出されたことに対して、韓国のメディアが批判しているとの記事である。
なんでも韓国では、近年日本料理に対抗して『韓国料理の世界化』キャンペーンを官民挙げて行われているそうである。この記事を見ると、韓国人でも日本文化と韓国文化が混同されて理解されるのは、好まないようである。
だったら、これを ↓↓↓ 何とかしろぃ。
左、日本剣道着そっくりな衣装を着て、剣道は韓国文化だとい言い張る輩。
中、椿三十朗や座頭一映画が、あたかも韓国映画だと言わんばかりのポスター
右、日本の茶道そのままコピーして韓国茶道だと。彼女の師匠っているんですかね。
【侍文化】
日本が他国から侵略されず、欧米の植民地にもならなかったのは、日本に武士がいたからである。実は日本は、他国からの侵略を度々受けている。代表的な侵略者は、新羅、李氏朝鮮である。それが人々の記憶に残らなかったのは、軽く撃退していたからである。
それでも蒙古による侵略は、歴史に残る事件であった。もっとも時の中央政府(鎌倉幕府)には、対した記録は残っていない。鎌倉幕府が大事件とするのは、国内紛争のようである。そして蒙古を撃退したのは神風としてし片付けられ、それが現在も常識となっている。しかし蒙古の撃退したのは、日本の武士達の奮戦によるものである。
神風神話が生まれたのは、大帝国を作った蒙古軍だから向かうところ敵無しの筈で、日本が敵う訳が無いとの思い込みがあったからである。実際、蒙古軍は向かうところ敵なしだった。しかし蒙古軍はそれ程強く無い。
実は蒙古軍はエジブトで完敗し、ドイツでもドイツ騎士団の巧みな戦術により、攻めきれず、危ういとこで撤退している。エジプトで完敗したのは、エジプトにマムルーク軍団がいたからである。マムルーク軍団の戦士は少年の頃奴隷として買い取られ軍事訓練を受けた後、奴隷身分から開放されマムルーク軍団に編入された人間達である。
蒙古軍がアジアやヨーロッパで連戦連勝だったのは、相手にマムルーク軍団のような訓練した戦士で構成された軍がいなかったからと思われる。処が日本にはマムルーク軍団と同じ、子供の頃から軍事訓練を受けた特異な武士が多数いたのだ。
蒙古兵は弓馬術は得意であっても読み書きも出来ず、日本の武士のような死ぬ覚悟の教育等受けてもいない。蒙古兵が略奪し残虐であるのは欲や恐怖心によるもので、規律や義務感からもたらされる日本の武士の勇敢さとは相反するものである。
確かに文永の役では、日本の武士団は集団戦法や初めて目にする鉄砲に苦戦したが、菊池軍は高麗軍を破り、翌日、本格的な戦闘が始まると思われる前に蒙古軍は撤退してしまった。この蒙古軍の不思議な行動に、あれは威力偵察だと解釈する人もいる。しかしそれにしては2万8千にと数が多すぎる。恐らく以外に手強わかったったので、陸で一夜を越すのが恐ろしかったのであろう。それでも戦術としては有り得ない。
弘安の役では、日本の武士達も慣れたのか志賀島に上陸した東路軍を追い落とし、壱岐島に東路軍と江南軍の一部が集結したことを知るや、逆上陸して勝利し、鷹島に集結した東路軍と江南軍に夜襲を加える等、終始の日本の武士団の方が積極的に戦っている。
これ等の戦いと夜間の武士による切り込みは、蒙古軍にとって脅威だったと見え、上陸しようともせず結局は台風に遭遇することになる。この間5月から夏の2ヶ月半、船中の衛生状態は想像を絶する状態と思われるが、それでも彼等は数に勝るにもかかわらず上陸しようともせず、船同士を鎖で繋ぎ船に篭城していたのである。それは偏に日本の武士団への恐怖であった。
確かに西南戦争での武士の切り込みは、近代兵器を持つ政府軍にさえ恐慌をもたらしたのだから、死ぬまで戦う日本の武士は彼等の理解を超えていたようである。元史の中にも『日本兵は頑強で死を恐れず、十人百人遇ってもまた戦う。敵に勝てない場合、敵と刺しちがえて共に死ぬ。戦いに敗れておめおめ帰って来ると倭主が成敗してしまう』と書かれている程である。
この『倭主が成敗してしまう』と言う処が、彼等の精一杯の理解だったのだろう。敵より味方の方が恐ろしいのだと、兵士を脅して戦場に駆り立てるのが大陸の流儀である。しかし日本の武士が勇敢なのは自己訓練の賜物である。自主的なのである。彼等の驚きは、大東亜戦争の時に日本兵の働きを目の当たりにした連合軍の驚きと良く似ている。
勇敢さだけでは無い。武器でも日本の武士は世界で一番長い長弓(和弓)を馬上で操る。文永の役ではその弓で小弐景資が蒙古軍の副将劉復亨を長距離から射倒している。長弓は矢も長く射程が長い。そう和弓は矢を耳の後ろまで引く。イギリス人も長弓を扱うが、実験した結果では和弓のほうが威力が上であった。当然なこと、和弓は竹と木のラミネート構造である。和弓と比較しイギリスの弓は原始人の武器のようである。
日本の武士が扱い難い長弓を使うのは意味有ってのことである。何しろ、日本の武士は世界最高性能の日本刀持つのだ。教育程度の高い武士なら集団戦等、すぐに学習するだろう。
戦った日本軍の数は蒙古軍より少なかった。しかし日本の武士の数は多いのである。1221年の貞永の乱では鎌倉幕府は東国の武士だけでも19万騎を動員している。1359年の九州で起きた筑後川の戦いでは両軍合わせて10万の軍が戦っている。
もし蒙古軍が上陸出来たとしたらどうだったであろうか。 恐らく蒙古軍は全滅していたと思われる。鎌倉幕府は国家総動員令にあたる動員令を朝廷に願い出、勅許されたが動員をかけるまでに、九州の御家人だけが戦い戦は終わってしまった。
持っている武器は同等以上。兵の質も勇敢さも日本軍が上。数も日本軍の方が上となると、13万程度の徴用兵で日本を攻めることが出来ると考えたフビライハーンは日本を知らなさすぎたと言える。
日本を知らないのは現代日本人も同じである。1939年に起きたノモンハン事件では、長く日本軍の完敗が信じられていた。しかしソ連崩壊後に出てきた資料ではソ連軍は日本軍以上の大損害を被っており、ソ連軍歴戦の将ジューコフも生涯で最も苦しかった戦いをノモンハンのハルハ河と答え周囲を驚かせている。又、文禄・慶長の役における泗川の戦いでは7千の島津軍が20万の明・朝鮮軍を敗走させているのだ。
戦争反対と叫んでいる、お花畑の日本人諸君。今君達が生きているのは、命を捨てて日本を守ってくれた日本人がいたからだ。彼等は死の恐怖を克服して戦った。君達にもその血は流れているのだ。そして今、日本は無くなろうとしているのだ。戦え!。
この記事を書く前、『モンゴル来襲と神国日本(三池純正著)』を読んでみた。高麗軍の将『金方慶』を持ち上げたり、『三別抄』の活躍を大げさにに言ったりする反面、武士が恐怖心で一杯だったとか、日本は完敗だったとか、なんだか著者の出自を疑ってしまうような内容であった。まあ、神風神話は打ち消したいが、武士達が活躍してもらっても困るというジレンマで書いたのであろう。この手の人間の精神分析をして見たい向きには、お勧めの本である。
韓国が盛んに日本文化の剽窃を行っている。如何に捏造しようと日本の文化は朝鮮半島のそれと根底から違う。人の感性も違うし精神構造も違う。しかし残念な事に、近年日本人なのに日本文化を理解出来ない人間が増えて来た。精神構造も朝鮮人と変わらない人間が増えてきた。
無理も無い。マスメディアや教育現場が乗っ取られていれば、そうなるのかも知れない。
【日本の工芸】
日本画では写実と装飾が混在することが許される。文様の中に細密な花鳥画が混在しても絵として通用する。それは西洋絵画ではあり得無かった。画家は芸術家であるが装飾は職人がやることであった。それが変わったのは日本の絵画からの影響である。クリムトの絵等はその代表であろう。
何も囚われない自由な発想、それは工芸の世界でも同じである。職人や技術者と芸術家の垣根が無いのも日本の文化の特徴である。
左の2つの写真は16世の埋忠明寿作の刀の鍔である。 埋忠明寿は足利将軍家に仕える金工師とされているが、刀も打つので刀工としても著名である。従って彼の立場はその時代の芸術家であり将軍家をとりまく文化人だったようである。
それは彼の残した作品を見れば分かる。自由な発想と共に知性が感じられる。そして何よりも驚くのは、まるでアール・ヌーボーの作品のように感じられることである。否、アール・ヌーボーこそが日本の芸術からヨーロッパへ接木されて花開いた芸術だったのである。それ故、未だに根強い日本人のファンが多いのは当然である。
だが、日本の芸術はそれに留まらない。中央の写真は江戸前期の金工、林又七作の鍔(破扇文散鍔)である。高価な金を象嵌した作品であるが、その象嵌の地は鍛えられ槌跡が残るような朴訥な鉄地であり、金象嵌で描かれるのは破れ朽ち行く扇である。世界にこのような芸術があるのだろうか。
西欧であれ東洋であれ美術品は美を誇るものであり、金を使うなら宝石も使い飾り立て競うものの筈であった。だが日本は違った。滅び行く物に美を感じ、粗末な道具にも気高さを感じた。もうアールヌーボのはるか先を行き追従は許さない。
豪華も質素も派手も朴訥も全て合わせ持つ。それが日本の芸術の特徴であり、それを育む自由こそが日本そのものである。
右の写真は、16世紀末頃の刀の拵えである。派手で奇抜な拵えと質素で朴訥な拵えが、同じ刀掛けに並んでいる光景を想像すると微笑んでしまう。それは下の質素な拵えでも、精一杯のお洒落を感じさせるからである。
この時代を境に、武士の刀の拵えは殿中指と呼ばれる黒一色の黒色蝋塗の拵えばかりになってしまう。それは端整であるが没個性である。これもまた武家社会が儒教による影響を受けたせいかも知れない。
日本の絵画は、中国大陸渡来の技法から描かれるものと、自然発生的に生まれた筆を使った線画とが融合したものと思われる。線画は鳥獣戯画や源氏物語絵巻に代表されるような絵で、大和絵と呼ばれる。大和絵に中国絵画の技法を加えたものが日本画に発展していく。
左の絵は、13世紀に描かれた平治物語絵巻の一巻、三条殿夜討巻の一部である。一部しかお見せ出来ないのは残念であるが、牛車が暴走し車輪が回転する様はどうであろうか、描かれている人物の表情、人馬の躍動感、ダイナミックな臨場感、まるで現代コミックやアニメの一画面のようである。否、人物の表情などは形式化された現代アニメより豊かである。
筆を使用した絵なので、当然中国にも同様な絵があるかも知れない。又山水等の描き方も中国絵画の影響が見られる。それでも発想の自由さは、この絵や鳥獣戯画同様、日本独自と思われる、そして日本のアニメや漫画の原点は、この時代に有ったのでは無いかと思ってしまう程である。
例えば、同じ平治物語絵巻の六波羅行幸巻には、天皇に逃げられた源信頼が慌てふためき天皇を探す様を、同じ画面に別時間を置いた二人の源信頼として描かれている。まさしく漫画である。
前回の日本人のデザイン力の中で『こだわり、気配り、美意識』が日本のデザインの特徴と書いたが、もう一つ『自由』を加えたい。
人気の高い三条殿夜討巻は、残念ながら日本に無くボストン美術館に所蔵されている。それでもアメリカで大事にされ、これによりアメリカ人が日本を知ることになれば良いのかも知れない。只、今は無き日本民族の遺物にだけはしてして欲しく無い。
中央の絵は、江戸寛永期に書かれた彦根屏風図である。江戸時代と言っても此処に描かれた風俗は安土桃山時代と共通する自由さがある。
屏風としては一畳六扇であるが、人物や物の配置が妙であり音楽的と言って良い。まず右から一扇に大人1+子供1、大人2、子供1、大人3と背景山水屏風絵、最後が大人2+子供1+背景の屏風となっている。自然な配置であるが、当然意識して計算尽くされた配置と思われる。
この絵は狩野派の誰かが書いたものとされ、背景の山水画も上手であり手を抜いていない。こだわり、気配り、美意識が如何なく発揮された絵である。そして絵から感じるこの時代の自由さは現代日本を越えている。
狩野派の永徳や探幽に代表される豪放で自由な絵は、この絵の時代を境にしだいにマンネリ化して行く。それは顧客であった武家社会が儒教に縛られ、精神の自由さを失ったのと関係している。
それに反して庶民は、江戸時代に入っても安土桃山時代の自由さを失わなかった。
『自由は日本人の生命である』と17世紀来日したスェーデン人C.P.ツュンベリーは言う。世界を自由に旅する人間が、士農工商の身分差別があり鎖国までしている封建時代の国の民を、そう評するのである。当然行動の自由では無い。法の秩序の中の自由である。それは精神の自由である。
最後の絵は言わずと知れた、葛飾北斎の絵である。明るさ、大胆な構図、何よりも感じる自由さ。印象派の人々が影響されたのも無理は無い。版画の為本物は小さいが、50号程に引き伸ばした写真を見ても違和感は無い。むしろ、より迫力がありダイナミックである。100号に引き伸ばして同じであろう。
現代の日本は、昔の日本よりもっと自由の筈である。だが日展やその他の絵画展の絵を見ても、過去の封建時代の頃の日本より自由さを感じないのは私だけであろうか。
工業製品と言えども、日本人の手に掛かると日本の文化背景が滲み出て来る。しかし、これが日本の文化の一つで有ることを、日本人自体が気が付いていない。
例えば文芸評論家富岡幸一郎氏は、多くの日本人がハヤブサの惑星からの帰還を称える中、『日本の科学技術、コンピュータとか優れていると言うのは確かに有ると思うが、只それが日本の文化というか日本人の器用さとか、能力だけになっちゃうと非常にさびしい物がある』と、まるで理解していない。
【日本人のデザイン力2】
戦前の日本を代表する航空機零戦も『こだわり、気配り、美意識』を感じさせる飛行機である。零戦は海軍の過酷な要求仕様から生まれた。それは、20mm機銃の装備の重武装、双発の爆撃機に匹敵する大航続距離。、最高水準の高速性能、航空母艦に発着艦させる為の短い離着陸距離、そしてどの戦闘機に負けない空戦性能等である。
それを1000馬力のエンジンの飛行機にまとめるためには、機体側で出来ることは機体を空力的に洗練させ軽くするしかない。設計者堀越二郎は、設計にあたって1gまでの重量管理を行う。そこまで徹底しないと目的の重量に出来ないと感じたからである。そして材料の安全基準が形状によっても同じ安全率であったのを馬鹿げているとして見直してしまう。
極限まで追求したのが零戦である。写真の上の零戦と、同時代のアメリカの艦上戦闘機F4Fと比較して見ればよく分かる。零戦の方が圧倒的に美しい。そして性能も零戦の方が上である。
零戦の能力はカタログ性能だけでは分からない。高速でも低速でも昇降舵の効きを同じにする工夫がなされている。今で言えばマンインターフェースへの配慮。つまり人間への気配りである。
堀越二郎にとって零戦は3作目の設計である。1作目の7試戦闘機は失敗である。堀越は反省する。まず美しくなかったと。そして2作目の零戦と同様に重量軽減と空力的洗練を徹底した9試戦闘機戦が初めて空へ飛んだとき、堀越二郎はつぶやく『美しい』と。この9試戦闘機が後の96艦戦であり日本が世界に追いつき、やや追い越したときである。
この時のつぶやきのように、堀越二郎にとっても良い設計は美しい筈であると信念が生まれていた。この9試戦闘機の成功により、日本の航空機エンジニアは一斉に外国を真似ることを止める。それは回答は外に有るのでは無く、自分の頭にあったことに気が付いた時である。
この成功にも関わらず零戦が軽量化を図る余り防弾装備を考えない人命無視の設計だと言う人がいる。1000馬力のエンジンのまま防弾をして重くなれば、敵機より空戦性能は悪くなりそれこそ人命軽視となる。
又、零戦はあまり限界を追求した設計の為、より大馬力のエンジンに換装出来ず失敗だったと言う人もいるが、堀越二郎はそれ等を一知半解の妄言と切り捨てる。零戦と同じ低翼面加重で出発した英国の戦闘機スピットファイヤーが最後は2000馬力のエンジンにしたのをみれば分かる。それは可能であった。
零戦が最後まで1000馬力のエンジンだったのは、生産に阻害となる大改造を軍が許さなかったからである。堀越二郎は英国が最後までスピットファイヤだけで押し通したように、新たな戦闘機の開発を止め最後まで零戦を改良して使うべきと言っている。
零戦の設計が極限を追求した為、副次的にその他の研究を促す結果となった。その一つが金属疲労の研究であり、もう一つがフラッターの研究である。
金属疲労の研究は、堀越が材料の安全基準の見直しをした為から始まった。戦後英国が開発したジェット旅客機コメットが度々空中分解を起こし、英国はその調査の為、機体を水をはったプールに入れ上下の加重を加えることで、機体上部の窓部の金属疲労が空中分解の原因だと知る。日本ではこのような疲労試験等は、戦前既にあらゆる航空機の試験で行っていたのである。
又、零戦は空中分解を2度起こしている。これは強度とフラッター限界速度の関係の算定が甘すぎた為である。零戦が極限の設計をした為表に出てきた問題であった。これにより日本のフラッター研究は世界に一歩リードすることになり、後の航空機の軽量化に一役かっている。限界速度が分からないと機体を頑丈に作るしかないからである。終戦後アメリカの調査団は、海軍航空技術廠の技師松平精氏のフラッター限界速度の推定が10ノット前後の言葉を聞いて驚いている。
堀越二郎がこだわり、厳密を追求したおかげで、日本の航空機研究は世界に先んじたのである。
このように、日本人の航空機に対するデザイン力は、やはり欧米とは違うなにかが隠されている。それは文化的背景であろう。『こだわり、気配り、美意識』はその言葉があること自体、日本人の中に未だにその文化が伝承されていると思われる。
戦後日本はGHQにより航空機の研究や製造が禁止されたが、航空機開発は細々と続けられれている。1960年代三菱は小型自家用機のMU-2を開発する。このMU-2にもこだわりを感じさせるものがある。補助翼を廃止し、全翼に及ぶフラップを設ける。無くなった補助翼の代わりはスポイラーで行う。それでも運動性はライバルより上である。このため高速でありながら、短い離着距離性能を持つ高性能機となった。
その結果 MU-2は世界の小型機の中でもベストセラーの地位を獲得し、2005年には米国航空雑誌の自家用機プロダクトサポートのターボプロップ部門において第1位の評価を得た。
然しながらMU-2の販売は赤字であった。その後継機のMU-300も同様であった。今はMU-2は生産を停止しMU-300は製造権も売られホーカー400の名称の外国機となっている。
これは設計者の罪では無い。アメリカの景気後退や円高不況、そしてアメリカが自国製品を優遇するバイアメリカン法の等の為である。
航空機の開発は金がかかる。その為に、どこの国でも政府がなんらかの援助をしている。処が日本はどうだろう。政治家は、こういった事にまるで理解も興味も無い。幾ら子供手当てで生めよ増やせよと生ませても、子供は自分の才能が発揮出来ない夢も希望も無い時代に生まれて来る事となる。
次は、日本の絵画。
写真説明:
右上:零式艦上戦闘機21型、
右下:米海軍艦上戦闘機F4F
中:陸軍試作戦闘機キ-83
アメリカの飛行機ではない。戦時中の混乱により間に合わなかった試作機である。それでもアメリカ軍の手により飛ばされた機体は762km/hと日本機最高をマークする。やはり美しい。
左上:小型ビジネス機 MU-2
左下:ホンダのビジネスジェット HF120
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