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フェイスブック

藤井厳喜氏の『馬鹿で野蛮なアメリカ経済』の受け売りだが、インターネットはグローバリズムのインフラであり、世界はワンワールドに向けて進行中である。

特にフェイスブックは、世界中に8億人のユーザーを持つ巨大なソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)であり、ヴァーチャル・ワンワールドから現実のワンワールドへ導く通路になっているようである。

これはフェイスブックの設立者のマーク・ザッカーバーグのお気に入りが、ローマ国家の基礎を築いたアエネーイスを描いた『アエネーイス』であり、マーク・ザッカーバーグの望む世界は、時間的にも空間的にも『普遍的な人類共同体』であり、フェイスブックに入ることは、ヴァーチャル・ワンワールドの世界、即ち新ローマ帝国の市民になることだろう、と藤井厳喜氏分析する。

また、マーク・ザッカーバーグは、個人の秘密が存在しない世界が理想であるとする信条の持ち主のようである。藤井厳喜氏は、プライバシーを守りたい人は、フェイスブックに入るのは考えた方が良いだろうと言う。しかしフェイスブックに入らなくても、インターネットを利用する限り、個人の情報は誰かに読まれていると知るべきである。

私はMIXIにも入っているが、入って感じたことは、SNSの世界では個人情報は特定な人間に筒抜けであり、分析管理され、特定な人間による情報操作も可能だろうと言うことである。

個人情報を分析管理できるのは、MIXIのようなSNSだけとは限らない、プロパイダー、ブログやホームページの為のレンタルサーバ業者、ネット販売業者、検索エンジンを提供しているインターネット関連のサービス企業、皆可能である。特に複数の業種にまたがってサービスを提供している業者で、サービスの規模が大きければ大きい程、個人情報が多く得られ分析管理しやすくなる。

卑近の例を上げると、たまたま職場で色見本が必要になり、業者が指定してきた色を検索したところ、それは千代紙の色見本であった。それからどういうわけか、しばらくの間、私のブログに千代紙の広告が出るようになり、私が他所のブログを見ても、その千代紙の広告が必ず現れるようになった。

理由は、私がGmailを楽天が運営するインフォシークに登録した事と、色見本で検索した千代紙を販売している所が楽天だったからである。ひょっとしたら、この忍者ブログも楽天系かも知れない。

日本語が嫌いな経営者が運営する楽天である。『崗上虜囚の職場見っけ』、『お前の個人情報は把握した』と威圧しているのかも知れない。もっとも、こちらの先祖は旗差物を背負い、大音声で名乗りを上げた武士の端くれ、そしてその子孫。名前が知られるのも住所が知られるのも、望む処である。

しかもそのお陰で、楽天がどのような会社であるのか分かった。ついでに楽天で買い物をする危なさを、皆にに教えて上げる事も出来た。見てるかい?楽天。

従って、インターネットを利用する限り、個人情報は誰かに筒抜けだと言うことである。そう、おねーちゃん画像を見ても、爆弾の作り方を検索しても、それは何処かのサーバに記録され、バーチャル管理ロボットにより、年齢・年収・思想・住所氏名も結び付けられ、データベースで管理されることになる。

それでもインターネットにより、個人が情報を発信することが出来るようになると、既存マスコミの偏向ぶりや、有識者と称する人間達のレベルの低さが露呈されることになった。インターネットのおかげである。いや、インターネットが無ければ、反日民主党と民主党と結託した反日マスメディアによる情報操作が、どこまで行ったかと思うと、そら恐ろしいものがある。

しかしその一方で、先に上げたように、インターネットの情報は特定な人間だけに多く集まり、利用者は監視されることになっている。収容所群島のように、強制労働や処刑こそないが、監視されることは同じである。

否、巨大ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)=フェイスブックは金融業と結びつき、金儲けの手段として使われるのである。それなら監視されるだけではないであろう。

個人の健康状態や消費性向、資産状況等のデータは「ビック・データ」という新しいマーケティング・コンセプトと結びつき、蓄積されることになる。当然、金儲けする側は、そのデータを使って個人をコントロールする筈である。

藤井厳喜氏は「ビック・データ」社会を新農奴制と言う。


 

ウィキリークスのジュリアン・アサジンは、ロシアの衛星TVのインタビューで、「フェイスブックは、今まで発明された中で、最も恐るべきアメリカのスパイ・マシンである」と言ったそうである。

藤井厳喜氏は、「ビック・データ」社会から逃れるには、ネット社会に繋がりながら出来るだけプライバシーを保護していく生き方と、完全なオフラインの方向を目指していく生き方の2つがあるという。

個人的には、オフラインの方向を目指したいが、今や仕事も私生活もネットと切り離せない以上、完全オフラインはまず無理である。出来る限りネットと疎遠な生活を送りたいが、現在ネットに嵌っているのは、日本の政治状況=このまま行くと日本が無くなると言う危機感からである。それが無くなれば、芸術の創作や自然への探求の方に重点を移したい処である。

でもやはり日本も「ビック・データ」社会に取り込まれるであろう。しかしそこで生まれてくるのは、SNSの新農奴と言うより情報の奴隷ではないだろうか。今でもそうであるが、膨大な情報に流され、最早創造する事も出来ない人間が増えるのではないだろうか。プライバシーが無くなることより、新農奴になることより、そちらの方が心配である (それを新農奴と言うのかもしれないが)。

それはエントロピー問題である。インターネットにより情報はあまりにも早く拡散して行く。熱力学では高温はエネルギーの高さを意味する。でも周囲も同じ温度であれば、それは使えないエネルギーである。情報も同じ、情報の拡散が早すぎれば、幾ら情報量が多くても、もはや人を動かす情報ではなくなる。情報こそが、秘すれば花なのである。


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【2012/05/14 20:21 】 | 宗教・哲学・思想 | 有り難いご意見(2)
国家観
前のエントリーで東京大学の総長は国家観が無いと書いたが、以前書いた記事の神戸市役所の職員も同じように国家観が無かった。それどころか政権与党である民主党の政治家も国家観が無い。社民、公明、共産も同じであろう。自民党の政治家でも国家観が無いのは一杯いるだろう。今やかなりの日本国民が国家など忘れてしまったようである。

まあ東京大学を始め、全国の大学・学校が在日や反日左翼に占拠されたような状態になってしまったので、自分の頭で考えずに素直に教授や教師の言う事聞くような人間なら、国家の事など考えたことも無いだろう。

そして国家観の代わりに出て来たのが市民社会の考え方である。だとしても、お互い契約で成り立つ市民国家のことを考えればれば、国家観が有ってしかるべきである。

例えばヴェネツィア共和国は議会が権限を持つ都市国家であった。ヴェネツィア共和国は市民社会の国と言えるだろう。しかし国家である以上、ヴェネツィア市民は国家を守る義務がある。レパントの戦いでは多くの市民が志願し、多くの市民が戦死した。

そもそもヴェネツィアが、湿地に囲まれた所に位置したのは、外敵からの侵略を守る為であった。ヴェネツィアが国家になったのは、そこに逃げ込んだ人々が共同で守った時から始まる。あの時代は、共同で守らなければ、侵略者に欲しいままに略奪されるか、奴隷にされるかしかなかった頃である。

何処の国の成り立ちでも、共同で外敵から身を守る為から始まっている筈である。人間の脅威は人間なのである。集団の人間程危険な物は無い。それは今も変わらない。国家とは、その脅威から守る運命共同体であり、国家観とは、その運命共同体を守る意識の事である。

日本の縄文時代は、戦争も無い穏やかな時代であった。共通文化を共有しながら、侵略する者もなく、人々は国を形成して外敵から身を守る必要は無かった。それが弥生時代には、吉野ヶ里のような多くの都市国家群が有ったと言われる。都市国家を形成しなければ、身を守れない何らかの事情が出来たのであろう。

しかし弥生の都市国家群は天皇による統一で一つの国、日本になる。それは天孫族(天皇一族)が小さな都市国家では守れないことを感じたからと思われる。それは、大陸半島からの人の流入や、大陸半島での侵略合戦を目にしたからであろう。

結局は縄文以来の共通文化圏は天皇による統一に救われる。支那人に食い荒らされること無く、半島のように度々異民族に侵略される事もなく、西欧人に植民地にされる事も無く、東洋で一番に文明国になったのは、天皇が国家として纏めたからである。

日本とは天皇が名付けた国名である。意識しようとしまいと自らを日本人と名乗り、住んでいる所を日本と言えば、自らを天皇が名付けた国の国民であることを言い、天皇によって統一された地の住民であることを言っているのだ。そうでなければ、自分が日本を作った訳でもないのに、日本人と言うのはおかしいでは無いか。

日本国の形成は古い。ヴェネツィアのようにお互い契約で成り立つ市民国家では無い。従って、日本国民とヴェネツィア市民が持つ国家観も違う。それでも国民国防の義務はヴェネツィア市民と同様である。違うのは、日本国民は天皇の臣民であることを意識することと、日本国は天皇の国であることを意識しなければならないと言うことである。

それが否なら、日本を出て行くべきだろう。そして、地球市民なので国防の義務を感じないと言って、受け入れてくれる国を探すべきだろう。受け入れてくれる国が有るとは思えないが。

国家観の第一歩は、国防の義務を感じる事である。
国防の事を言わない政治家は、全て偽者である。

レパントの海戦:この海戦で教皇・スペイン・ヴェネツィア連合軍は勝ったが、ヴェネツィアは多数の死傷者を出した。市民国家であろうと自己犠牲は国民の義務の発露である。

 
現在の日本の平和は、アメリカの多大の貢献によるものである。アメリカの青年達の自己犠牲により、日本の平和が守られていると言っても良い。私は慰安婦問題等でアメリカに批判的な立場であるが、それでも国家観の無い日本人より、日本の国防の一翼を担ってくれる米軍人の方が、はるかに親近感がある。国家観の無い日本人は、狡い卑怯者である。
【2012/01/17 22:09 】 | 宗教・哲学・思想 | 有り難いご意見(10) | トラックバック(0)
禅・達磨の目の補足
お客様から、悟りなど『まるで理解できそうにありません』との、コメントを頂ましたので補足説明をします。

ちょっとその前のTPP=グローバル主義の考え方を批判しておきたいと思います。

以前のエントリーで『人類は鎖国している』と書きましたが、実際宇宙船地球号または宇宙コロニー地球は孤立状態です。孤立状態であれば、何が有用であるかは自分達で考え、資源も自分達で探しに行かなければなりません。それでも足りない物があれば自分達で作らなければなりません。常に明日の準備をし、如何に困難であろうと、自分達しか解決してくれる人はいません。コロニーの規模が小規模になれば、その自分達と言う言葉は、自分と言う言葉に置き換えても良いかも知れません。

ところがTPP賛同者やグローバル主義者の考え方に抜けているのは、解決するのは自分だと言うのがすっぽり抜けています。彼等が貿易の規模や経済規模を拡大すると豊かになると言っているのは、規模が大きくなれば誰かが解決してくれるだろうとの、他人まかせの考え方からきているとしか思えません。

この手の人間がメーカに居れば、仕事が来ても製造も設計も出来ないだろうし、他メーカに丸投げするだろう。それが彼等の解決手段だ。それが国単位の話なので、支那やベトナムに丸投げすれば解決すると思っているのだ。

そしてTPPに入れば日本農業の再生になると言うのであれば、その道筋を示さなければなりません。尤もその道筋を示せるくらいの頭があるのなら、別にTPPが無くても日本農業の再生の道を言った筈です。それ以前に日本の農業が何故問題であるか、何処に問題が有るか言っている筈です。残念ながらTPP賛同者から日本農業の何が問題だなんて話は聞いたことが有りません。せいぜい外国と比較した農業規模の話だけです。

規模を大きくして得られるものは、生産性の効率だけです。小規模工場が大規模工場になって生産効率を上げる、または小規模農場が大規模農場になって生産効率が上がるのは、生産に関わる人間の数を減らすだけです。宇宙コロニーであれば、生産性の効率は重要です。常にコロニーの補修、資源探査、資源収集と明日の準備をしなければなりません。余剰人員が出れば、人手をそちらに回せます。

TPPで得られるのは効率だけです。TPPを推進するなら余剰人員に何をやらすかの方が重要なのに、野田政権はじめとするTPPを推進論者から全くその声が聞こえて来ません。3度のメシを食いながら、仕事が無いと嘆いている人間がいる傍ら、震災復興、原発事故により足りなくなった新たなエネルギー開発、弱体化した国防の補填、山のような仕事があるにも関わらず、何もしない野田政権が効率だけしか得られるものが無いTPPを何故推進するのでしょうか。

宇宙コロニー地球の小モデルは日本と言う国です。国という単位は他国民をあてにせず、何事も自分達で解決して行くかねばならない処から見ると、宇宙コロニーと同じです。従って経済鎖国があっても当たり前です。それでも他国と交易するのは、自分達で解決出来ない事柄があるからです。

日本は、宇宙コロニー小モデルとして最適です。まず鎖国時代の循環型経済を作り上げた実績があります。また近年、日本は資源大国であることが分かってきました。海洋に目を向けると、メタンハイドレード、天然ガス、ウラン、マグネシウム等のエネルギー資源、レアアース等希少金属、そして魚類海草等の食料資源と資源の宝庫です。

とくにエネルギー資源は重要です。エネルギーが有れば人工光で地下だろうと壁だろうと植物を栽培できます。エネルギーが有れば食料も作り出すことができるのです。見つかっているメタンハイドレードだけで100年、海水からのウランであれば無尽蔵。100年もあれば核融合発電技術だって可能になる筈です。

当然、その間に理想的社会を模索し建設することができる筈です。日本の使命は、宇宙コロニー地球の実験版であり、人類が宇宙に出て行くためのノウハウを見つける事です。

国と言う単位は、何処からも干渉されず、自分達の力で理想郷を作って行くのが目的ですが、TPPに入ると全てぶち壊しになります。恐らく、これらの海洋資源も他国の物になり、土地は外国人に買い取られ、食料は他国に依存する体質になるでしょう。政府はISD条項を恐れ、海洋資源の開発もしなくなるだろうし、国防産業も壊滅し国防は成り立たなくなります。日本は、希望、可能性、意思の全てを失い、国としての機能を失います。

これを考えると、他国の策謀に踊らされ、嬉々として国を破壊しているTPP推進論者や、グローバル主義者は馬鹿者と言って過言ではないでしょう。

何故なら彼等は、グローバルと言い国境の概念は古いと言いながら、宇宙船地球号や宇宙コロニー地球の一員としての自覚も無いし、そのビジョンも有りません。有れば、国境を取り去った後の世界秩序をどうするべきか言ってしかるべきだし、設計図面を見せることができる筈です。そんなものは彼等の口から聞いたことも、見せてもらったこともありません。

TPPに入るぐらいだったら、アメリカの一州になった方がまだまし。日本人を大統領にし、アメリカを変えることだってできる。

ちょっとその前が長かったですが、悟りの説明はかくも簡単です。


禅・達磨の目の補足
目耳口の三つの障害が有る子供であったヘレン・ケラーは、手の付けられないじゃじゃ馬のような子でした。三つの障害の為、意思の疎通が出来なかったので、親としては躾けどころでは無かったでしょう。

それでも両親は諦めず、家庭教師アン・サリバンを雇います。アン・サリバンは意思の疎通の手段として、ヘレン・ケラーに指文字を教えます。水遊びで暴れまくるヘレン・ケラーをアン・サリバンは水に触れさせながら、水の指文字を教えます。しかしヘレン・ケラーは指文字を、くすぐったい遊びとしか感じなかったようです。

しかしある日、ヘレン・ケラー何時ものように水いたずらをしなが、アン・サリバンが教えてくれた指文字を思い出します。この冷たい流れは水で有った。また木の指文字を思い出し木の処に行きます。

ヘレン・ケラーは一瞬に悟ります。木は木で有り、水は水で有り、土は土で有り、自分はヘレン・ケラーで有り、アン・サリバンはアン・サリバンで有ることを。

最後にヘレン・ケラーは、アン・サリバンを呼び、二人で木を触り水に触れ、地面を叩き、悟ったことを確かめます。

禅で言う悟りは、これの全く逆。木は木で無く、水は水で無く、冷たさも暖かも無く、己は己で無く、宇宙も宇宙で無いことを悟ることです。

口直し。雪舟の到達したところ。破墨山水
 

【2011/11/13 15:28 】 | 宗教・哲学・思想 | 有り難いご意見(14) | トラックバック(0)
禅・達磨の目2
8日の記者会見で、藤村修官房長官がダライラマを会談した口頭で注意したことを明らかにした。理由は『(ダライラマとは)接触はしないのが通例だ』とか。

恐らく支那の目が怖いからであろう。藤村修本人も気が付いていないと思われるが、知らずのうちに支那に洗脳されていたのである。民主党の手合いはこんな者ばかりである。公平に言えば、公明、社民、共産も全員同じ、自民も殆どであろう。

戦争と聞けば反対としか思いつかず、核については考えてもいけない。自分の頭で考えなかった人間は皆こうなる。洗脳頭ほど上から目線線である。そのくせ自信が無い。会議が好きだが、自信が無いから国際会議ではだんまりである。だから誰かに指摘されると、突如謝ったりする。

この手の指導者を頂いた国民は不幸である。まず国民の自由を奪う。何故なら、彼(指導者)自身、思考の自由が無いからだ。自分の頭で束縛を断ち切らなかったからだ。

【禅・達磨の目2】
禅の開祖達磨大師を模した高崎ダルマは、縁起物で有名である。それは願掛けに使用する。願掛けをする場合、左目に墨で目を入れて床の間に飾って置き、満願成就のあかつきに、もう一方の目も入れるのをしきたりとする。

何故、願掛けのとき片目で、満願成就のあかつきに両目とするのか。この理由について書かれているのを見たことがないので、勝手な解釈をして見る。

禅書を読むと、しばしば一隻眼を具すとか、片目が開くの言葉が出て来る。禅でなくても、一隻眼を有するような人間は、達人の域に達した人間を指す。

片目でも目が開いてる時と、両目が塞がった時ではえらい差である。両目を瞑った状態では道など歩けない。処が片目でも開けば全てが見える。片目が開くこととは、即ち世界が見える状態になることである。

つまり禅では、一隻眼を有するは悟りを開いた状態を表し、片目が開くの意味は悟りを得た時を指すのである。恐らく高崎ダルマの目入れも、この故事から来たものであろう。

(この悟りを開く=片目が開くの例えは、少し引っかかる。片目が開いていない人は、見えないのではない。色付きサングラスをかけているのである。サングラスをかけないと見えないと思い込んでいる人である。従って、悟りを開く=サングラスを外す、であろうか)

しかし高崎ダルマは願掛けの時片目を入れる。禅の目標は悟りでは無いのか。両目が開いた状態はどの様な状態なのか。禅では両目を開くのは何時なのか。申し訳無い。私は両目が開いた状態はどの様なのものか、それが何時なのかは分かない。

只、般若心経には、片目が開いた者が最初に言う言葉である『色即是空』と『空即是色』が書かれているが、経の最後に『羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦』と呪文のようなものが書かれている。

これは、サンスクリット語『ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼじそわか』の漢字による音訳である。意味としては『行こう、行こう、彼岸へ行こう』程度の他愛無いものであるが、これこそ片目が開き、悟りを開いたときは、まだ彼岸に達していない事を意味しているものである。

昔、日経の有識者のコラム欄に、加藤辨三郎と言う協和発酵社長が時々投稿していた。本質的な処から物事を見、鋭い分析をするので注目していたが、そのうち時折禅句等も引用するので、禅をたしなんだ人であろうと想像していたが、果たしてNHK教育TVに禅の講師として出ていた。一隻眼を有する人間だったのである。

会社では研究者達に請われ、禅の講義をする事もあるという。処が何年後かに又NHK教育TVに出ているのを見て驚いた。何と今度は念仏の講師としてである。自力本願の禅から他力本願の念仏へである。社長から会長になったのであろう。会長室に観音様を持ち込み念仏三昧だそうである。これも悟りだけでは駄目だったということなのであろう。

又、臨在宗の祖・臨在は、師・黄檗の下で大悟するに至ったが、ある日臨在は黄檗がお経を読んでいるのを見てあきれた。『経典も釈迦の言葉も、月を指す指のような物。そんな指を有り難がるとは』と思い、黄檗の下を離れようと、暇の挨拶をして少し問答した後に下山した。だが『はてな、まてよ』と思い直して引き返した。臨在はもう一つ悟った。悟りの先が有ることを。

悟りは始まりなのである。北禅を伝えた神秀の偈『時時に勤めて払拭せよ。塵埃を惹かしむる勿れ』や、趙州が『塵が、また一つ飛んできた』と答えたのも、常に心の掃除をしなければならない事を教えてくれる。

常に掃除をしなければならないのなら、説法を暗誦できないほど愚鈍だった周利槃特が、釈迦に言われて比丘衆の履物等を『塵や垢を除け』と唱えつつ払浄して、ついに安心立命を得たのだから、悟りを得た者と未だ悟りを得ていない者は、同じスタートラインにいることになる。

これを修行とするなら、清潔好きな日本人は皆資格がある。第一禊や清めが努めである神道の信仰が修行である。しかし個人が安心立命を得る為修行するのにも、静かな環境が無くてはならない。

昔の日本にはそれが有ったのである。昔の為政者や知識人は、両目が開くまで至らなかったかも知れないが、仏教の奥義を知り、禅に通じ、悟りを開き、片目の開いていた人間が多かったからである。

それより何より、悟った者、片目の開いた者は思考が自由である。上に立つ為政者や知識人の思考が自由なら、下々にも思考は保障される。以前のエントリーで日本の芸術が如何に自由であるか言った。何故日本の芸術が自由なのに、日本に古い伝統が保存されのか。それは、片目の開いていた為政者や知識人により、静かで自由な環境が作られていたからである。

しかし現在の日本はどうであろうか。もう言論統制は始まっている。色メガネをかけた思考の不自由な人間達が、同じ色メガネをかけろと騒いでいる。何も見えぬ目で古いものは悪いと壊し始めている。おそらく経済も文化も衰退するだろう。片目の開いていない為政者は資格が無いのだ。

悟りは始まりである。しかし始まりの始まり、一言有る者はまず悟るべきである。
高崎だるま屋さんの画像を借りました。
 

【2011/11/10 23:05 】 | 宗教・哲学・思想 | 有り難いご意見(15) | トラックバック(0)
禅・達磨の目1
オウム真理教によるサリン事件は、高学歴の者の馬鹿さ加減が世間に知られるようになりました。オウムの幹部達は、東大の物理、阪大の物理、京大の法学部、筑波大の化学、早大工学部、慶大医学部出身と蒼々たる秀才連中でした。

このたびのTPP騒ぎでも、日本に何ら得にならないTPPを熱心に推進しているのも、皆高学歴の人間です。又日本を破壊することに熱心な民主党の閣僚も、皆東大を始めとする有名大学出身。しかし、世間から見たら只の馬鹿者。一生懸命勉強したのでしょうが、一様に言えるのは、彼等に物事の根本を考える能力が無いことです。要するに彼等に共通するのは思考の不徹底です。

それに引き換え一般庶民の方が、遥かに思慮深いようです。それは、ちやほやされる訳でもなく、はったりを言う必要も無く、驕りになど無縁な環境にいるからでしょう。このエントリーは、その思慮深い市井の一人、杜若さんへの回答です。

2011/10/24の『神道、仏教、禅』エントリーでは、日本に伝来した禅宗は6祖慧能から始まった南禅であると書きました。それに対して、杜若さんから神秀の偈の方に愛着が湧きますとの返事を頂ました。(いや神秀さえも知っているとは、否やはりと言うべきか)

これについて少し説明をすると、禅宗はダルマを開祖として続いていましたが、5祖弘忍の下で北禅と南禅に別れたのです。それは弘忍が6祖を選ぶにあったて、有志の者に『自己の境界を偈に作って公表せよ』と言ったことから始まりました。その偈の一つが、杜若さん示してくれた神秀の偈です。
  身は、是菩提樹
  心は、明鏡台の如し
  時時に勤めて、払拭せよ
  塵埃を惹かしむる勿れ

神秀は既に教授師になっており、自他共認める高弟でした。一方、慧能は文字も読めぬ卑賤の出身で、雑用を行っていた作務男でした。慧能は雑用を行っていた為、神秀の偈の公表を知らなかったが、一童子がその偈を暗唱たのを聞き、自らの偈を作り神秀の傍に展示した。それが下の偈です。
  菩提、本、樹無し
  明鏡、亦、台にあらず
  本来無一物
  何の処か、塵埃を惹かん

5祖弘忍はこれを見て、慧能を部屋に呼び金剛経を説かれた。慧能は金剛経の中の一節『応無所住而生基心(まさに住する所無くしてしかも其の心を生ずべし)』で確信し、弘忍もこれを認めて伝来の衣鉢を伝授した。そして慧能は山を降り神秀は留まり、それが南禅と北禅に別れた始まりであった、と伝わっています。

もっとも、これは後世の誰か(南禅の人)が創作したものだとの意見もあり、禅宗の開祖ダルマがいた事も疑っている人もいます。又、禅宗には座禅だけでは無く、拳法のようなトレーニング法も有り、飯炊き坊主が始めた南禅により、それが捨て去られてしまっていると言う人もいます。師・宗道臣ですが。でも南禅が支那で盛んになり、日本でも盛んになったのは何かが有ったのでしょう。


禅・達磨の目1
人は何故宗教に入るのか、それは安心立命の境地を得る為である。また人は何故思想を持ち、その思想で物事を断じようとするのか。それも同じ、絶対的な思想に到達できれば何事が起ころうが、それによりあらゆることが説明が出来き、不可解なことに不安を感じることが無いと思うからである。禅も同じである。目的は安心立命である。

禅による安心立命の手段は、座禅等による訓練と悟りの二つである。自分の生命を捨てることが勤めであった武士であれば、事に及んで狼狽等すれば後れを取ることになる。第一狼狽等恥じである。従って、如何なる事態になっても平常心を保てるかは、武士達の一大関心時で有った。多くの武士が禅に勤しんだのはこの為である。

座禅の効用の一つは、自動制御理論の臨界制動のように、一時の心の乱れを最短に収束する能力が得られることである。しかし心が乱れる要因は、一時的な物理的要因だけでは無い。男は家を出ると7人の敵がいると言われる如く、心が乱れる要因は四六時中有る。仕事を家に持ち込めば、寝ても醒めても心の乱れる要因に付きまとわれる。

それは物理的要因と言うより、仔細に考えれば言語が要因である。『おまえのかーちゃんでべそ』から、誹謗中傷、美人の謎かけ等、心を乱す要因は言語である。釈迦が克服しようした老・病・死さえ言語である。人は言語に悩まされていると言って過言では無い。悟りとは、その言語の本質に気が付くこと、即ち悟ることである。

悟らず、安心立命を得ることはできる。その一つがキリスト教などの信仰に入ることである。その場合、心が乱れる絶対神の言葉以外の言葉は只の雑言、聞く耳は持たない。従って安心立命を得られても、心の自由度は狭まる。しかも今度は絶対神を守らなければならない立場となる。又、山深く入り下界を捨て、座禅三昧の生活でもすれば、安心立命の境地になれるかも知れない。だが下界の人間が押し寄せてくれば、その境地も脅かされる。どちらも指導者としては不適格だろう。

凡そ、一言有る者は悟るべきだろう。否、悟れる筈である。

般若心経では、色即是空と言っているでは無いか。金剛教にも、世界は世界に非ず名付けて世界と言っているでは無いか。摩訶止観で、も心が過去に有るとするなら過去は過ぎ去っており、未来に有るとするなら未来は未だ来たらず、現在に有るとするなら現在は止まること無く流れ、心が留まる処など無いと説いているでは無いか。

経典に頼らず共、現代物理を知れば意識も心も、エネルギー流れの一つにしかすぎない。否、現代物理を知らずとも、自然も自己も分けようも無いのが分かる筈である。言語の始まりを考え、言語を思い浮かべなければ、物質どころか空も無も無い世界であることが分かる筈である。もうじき人工頭脳で意思でさえ作りだせる時代が来る。

それでも悟れないのは、着眼点の不徹底、探し方の不徹底、思考の不徹底だからである。尤も悟ったとしてもスキルが上がる訳でも無く、得になる事は無い。せっかく色即是空と言ったかと思うとすぐに空即是色と言うように、何かが変わる訳では無い。

悟りは始まりなのである。続く。
  
右:雪舟・恵可断臂図

【2011/11/08 22:17 】 | 宗教・哲学・思想 | 有り難いご意見(2) | トラックバック(0)
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