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崗上虜囚の備忘録

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禅・達磨の目1

オウム真理教によるサリン事件は、高学歴の者の馬鹿さ加減が世間に知られるようになりました。オウムの幹部達は、東大の物理、阪大の物理、京大の法学部、筑波大の化学、早大工学部、慶大医学部出身と蒼々たる秀才連中でした。

このたびのTPP騒ぎでも、日本に何ら得にならないTPPを熱心に推進しているのも、皆高学歴の人間です。又日本を破壊することに熱心な民主党の閣僚も、皆東大を始めとする有名大学出身。しかし、世間から見たら只の馬鹿者。一生懸命勉強したのでしょうが、一様に言えるのは、彼等に物事の根本を考える能力が無いことです。要するに彼等に共通するのは思考の不徹底です。

それに引き換え一般庶民の方が、遥かに思慮深いようです。それは、ちやほやされる訳でもなく、はったりを言う必要も無く、驕りになど無縁な環境にいるからでしょう。このエントリーは、その思慮深い市井の一人、杜若さんへの回答です。

2011/10/24の『神道、仏教、禅』エントリーでは、日本に伝来した禅宗は6祖慧能から始まった南禅であると書きました。それに対して、杜若さんから神秀の偈の方に愛着が湧きますとの返事を頂ました。(いや神秀さえも知っているとは、否やはりと言うべきか)

これについて少し説明をすると、禅宗はダルマを開祖として続いていましたが、5祖弘忍の下で北禅と南禅に別れたのです。それは弘忍が6祖を選ぶにあったて、有志の者に『自己の境界を偈に作って公表せよ』と言ったことから始まりました。その偈の一つが、杜若さん示してくれた神秀の偈です。
  身は、是菩提樹
  心は、明鏡台の如し
  時時に勤めて、払拭せよ
  塵埃を惹かしむる勿れ

神秀は既に教授師になっており、自他共認める高弟でした。一方、慧能は文字も読めぬ卑賤の出身で、雑用を行っていた作務男でした。慧能は雑用を行っていた為、神秀の偈の公表を知らなかったが、一童子がその偈を暗唱たのを聞き、自らの偈を作り神秀の傍に展示した。それが下の偈です。
  菩提、本、樹無し
  明鏡、亦、台にあらず
  本来無一物
  何の処か、塵埃を惹かん

5祖弘忍はこれを見て、慧能を部屋に呼び金剛経を説かれた。慧能は金剛経の中の一節『応無所住而生基心(まさに住する所無くしてしかも其の心を生ずべし)』で確信し、弘忍もこれを認めて伝来の衣鉢を伝授した。そして慧能は山を降り神秀は留まり、それが南禅と北禅に別れた始まりであった、と伝わっています。

もっとも、これは後世の誰か(南禅の人)が創作したものだとの意見もあり、禅宗の開祖ダルマがいた事も疑っている人もいます。又、禅宗には座禅だけでは無く、拳法のようなトレーニング法も有り、飯炊き坊主が始めた南禅により、それが捨て去られてしまっていると言う人もいます。師・宗道臣ですが。でも南禅が支那で盛んになり、日本でも盛んになったのは何かが有ったのでしょう。


禅・達磨の目1
人は何故宗教に入るのか、それは安心立命の境地を得る為である。また人は何故思想を持ち、その思想で物事を断じようとするのか。それも同じ、絶対的な思想に到達できれば何事が起ころうが、それによりあらゆることが説明が出来き、不可解なことに不安を感じることが無いと思うからである。禅も同じである。目的は安心立命である。

禅による安心立命の手段は、座禅等による訓練と悟りの二つである。自分の生命を捨てることが勤めであった武士であれば、事に及んで狼狽等すれば後れを取ることになる。第一狼狽等恥じである。従って、如何なる事態になっても平常心を保てるかは、武士達の一大関心時で有った。多くの武士が禅に勤しんだのはこの為である。

座禅の効用の一つは、自動制御理論の臨界制動のように、一時の心の乱れを最短に収束する能力が得られることである。しかし心が乱れる要因は、一時的な物理的要因だけでは無い。男は家を出ると7人の敵がいると言われる如く、心が乱れる要因は四六時中有る。仕事を家に持ち込めば、寝ても醒めても心の乱れる要因に付きまとわれる。

それは物理的要因と言うより、仔細に考えれば言語が要因である。『おまえのかーちゃんでべそ』から、誹謗中傷、美人の謎かけ等、心を乱す要因は言語である。釈迦が克服しようした老・病・死さえ言語である。人は言語に悩まされていると言って過言では無い。悟りとは、その言語の本質に気が付くこと、即ち悟ることである。

悟らず、安心立命を得ることはできる。その一つがキリスト教などの信仰に入ることである。その場合、心が乱れる絶対神の言葉以外の言葉は只の雑言、聞く耳は持たない。従って安心立命を得られても、心の自由度は狭まる。しかも今度は絶対神を守らなければならない立場となる。又、山深く入り下界を捨て、座禅三昧の生活でもすれば、安心立命の境地になれるかも知れない。だが下界の人間が押し寄せてくれば、その境地も脅かされる。どちらも指導者としては不適格だろう。

凡そ、一言有る者は悟るべきだろう。否、悟れる筈である。

般若心経では、色即是空と言っているでは無いか。金剛教にも、世界は世界に非ず名付けて世界と言っているでは無いか。摩訶止観で、も心が過去に有るとするなら過去は過ぎ去っており、未来に有るとするなら未来は未だ来たらず、現在に有るとするなら現在は止まること無く流れ、心が留まる処など無いと説いているでは無いか。

経典に頼らず共、現代物理を知れば意識も心も、エネルギー流れの一つにしかすぎない。否、現代物理を知らずとも、自然も自己も分けようも無いのが分かる筈である。言語の始まりを考え、言語を思い浮かべなければ、物質どころか空も無も無い世界であることが分かる筈である。もうじき人工頭脳で意思でさえ作りだせる時代が来る。

それでも悟れないのは、着眼点の不徹底、探し方の不徹底、思考の不徹底だからである。尤も悟ったとしてもスキルが上がる訳でも無く、得になる事は無い。せっかく色即是空と言ったかと思うとすぐに空即是色と言うように、何かが変わる訳では無い。

悟りは始まりなのである。続く。
  
右:雪舟・恵可断臂図

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