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崗上虜囚の備忘録

日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください

縄文・旧石器・地図

縄文海進と氷河期の日本地図

 左は縄文海進で10m海水位が上がった時、右が海水位(-120m)が最も下がった2万年前頃の地図。
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日本神話と赤ホヤ噴火

天皇が何処から来たかを古事記・日本書紀と考古学から推測する説は色々ありますが、神代記から推測した説はあまり有りません。せいぜいこの時代に皆既日食が有ったので天岩戸神話はこれだろうとの推測ぐらいです。これは神代の話は只の創作と見て重きを置いて無かった為と考えられます。
 

 しかし単なる創作とは考えられない神代記の摩訶不思議な話について、この神話は何を意味するか、何故生まれたのかを推測することで、天皇の先祖について新たな発見が有るのではないでしょうか。そこで黄泉の国神話や天の岩戸神話等を注目して、仮説を立ててみました。
 

仮説を先に言うと
・天皇の先祖は上野原遺跡の地に居た。
・約束の地に戻ったのが天孫降臨。
・黄泉の国神話は高千穂峰の噴火の樣である。
・天の岩戸神話は喜界赤ホヤ噴火体験により生まれた。
・天皇の先祖は九州北部に居ついた。
・九州北の地で縄文人と長江人の邂逅が起きる。
・日本統一を成し遂げられたのは強烈な体験の基づく信仰と稲作。
・卑弥呼は天照大御神が憑依した巫女。つまり日の巫女。
・邪馬台国はヤマト国である。即ち後の日本。
・日本は縄文文明と長江文明が融合した国で、7000年前の宗教を頂く国である。
 
 但し、これらの仮説には、
1、喜界赤ホヤ噴火の降灰の最中に踊り祈る事など出来るであろうか。
2、上野原遺跡の地にいた縄文人は脱出出来るのであろうか。
3、7300年前の事を7世紀まで伝承できるだろうか。
等の難点があります。
 
 まず日本神話を読んで感じることは、火の神の多さです。そして火山の描写としか思えない箇所が有ることです。特にイザナミ尊が火の神カグチツを生んだことで身を焼かれて死に、イザナギ尊が死んだイザナミ尊に会いに黄泉の国に行った時、イザナミ尊は身体中雷に覆われて出てくる場面(注1)は、噴火そのものです(図1参照)。

注1:頭には大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、并せて八はしらの雷神成り居りき。


        注1:噴火と雷(画像はインターネットから無断で拝借したものです)
 
 従って日本神話は天皇の先祖、即ち天孫族が火山噴火を体験した事で生まれたのではないかと推測出来ます。ではその体験した場所は何処かですが、キーワードは高千穂峰です。高千穂峰はニニギ尊が降臨した所ですが、天孫降臨の地が国譲りをした出雲では無く、高千穂峰なのは不思議ではないでしょうか。
 
 実は高千穂峰の場所は天孫族にとってゆかりの地、否そこは約束の地であり高千穂峰は当初から天孫族の信仰の対象だったかも知れません。
 
 そこで高千穂峰近くの遺跡を調べると有りました。上野原遺跡です。上野原遺跡は1986年(昭和61年)に霧島市で発見された縄文早期(約1万700~1万400年前)から縄文晩期の複合遺跡で(注2)、特に縄文早期のものは「国内最古、最大級の定住化した集落跡」とされています。
 
注2:古い資料では上野原遺跡は約9500年前からとされていますが、再測定により上記の約1万700~1万400年前です。又、同様に古い資料では喜界赤ホヤ噴火も約6300年前とされていますが、これも約7300年前です。
 
 そして天皇の男性の遺伝子Y-DNAハプログループはD1a2a1bの縄文系です(注3)。また上野原遺跡は縄文人の遺跡。天孫族が上野原遺跡の地の出身だとしても可笑しくはありません。
 
注3:これは東山天皇の男系子孫の複数名と南朝後村上天皇の男系子孫等のY-DNAを調査した結果です。 
 
 上野原遺跡は200mの高台に有り、凡そ20km離れた高千穂峰は裾野のまで見渡せる位置なので(図2参照)、上野原遺跡にいた縄文人は高千穂峰を朝晩畏敬の念で見ていたと思われます。そして高千穂峰は喜界赤ホヤ噴火を挟んで7600年前から7300年前に2回大きな噴火を起こしていたのです。
 
     図2:上野原遺跡から見た高千穂峰。(画像はストリート・ビューから)
 
 その最初の1回目の噴火が黄泉の国の神話が生まれた理由では無いかと考えられます。何故1回目の噴火かと言うと、上野原遺跡の縄文早期の遺跡は喜界赤ホヤ噴火の火山灰に埋もれており、喜界赤ホヤ噴火で滅んだと思われるからです。
 
 そこで黄泉の国の神話が上野原遺跡の地に居た天孫族が高千穂峰の噴火を見て考えついた物語とするなら、上野原遺跡に居た天孫族が超巨大噴火である喜界赤ホヤ噴火を神話に記載しない筈が有りません。そう考えると日本神話の最大イベントである天岩戸神話と喜界島の赤ホヤ噴火を結び付けるのが自然です。
 
 では天照大御神が天岩戸に隠れる前に何が起きたかですが、古事記ではスサノオ尊が天照大御神に合いに天に参上する時「山川悉に動み、国土皆震りき」とあります。つまりこれは大地震の描写と見て間違いがないと思います。
 
 事実、南九州で喜界赤ホヤ噴火による堆積物を調べると、最後の火砕流を伴う噴火の灰の下の地層に液状化の跡が発見され、最後の噴火の前にこの地域が激震に見舞われたことが証明されたのです。
 
 喜界赤ホヤ噴火とは、幸屋降下軽石と言われる降下物を伴う噴火と、やや小規模火砕流を伴う噴火と、幸屋火砕流と言われる大規模火砕流を伴う巨大噴火の3回の噴火の総称です。特に最後の噴火の火砕流は薩摩半島と大隅半島と屋久島の宮之浦岳1936mの山頂までを覆い尽くして霧島市近くまで迫っており、噴煙は3万m以上に登り、降灰は東北地方南部まで及んでいるのですから上野原遺跡の地では相当な降灰が有ったと思われます。つまり上野原遺跡の地では真っ暗になった筈です。
 
 これこそ天岩戸神話での天照大御神が天岩戸に隠れる場面ではないでしょうか。例えば11世紀以降人類が経験した最大の噴火である1815年のインドネシア・スンバワ島にあるタンボラ山の噴火(注4)では、スマナプ島に居た英国人が「翌日の午後までろうそくを照らす必要があった」と手紙に書いているのです。
 
注4:1815年のタンボラ山の噴火の火山爆発指数VEIは7、喜界赤ホヤ噴火もVEIは7ですが、喜界赤ホヤ噴火の方が大きいと考えられています。
 
 スマナプ島が何処かは不明ですが、スマナプ島がスマラプラ島(バリ島)だとするとバリ島の主要都市とタンボラ山の距離は凡そ200km、それに対して喜界カルデラと上野原遺跡間の距離は凡そ114kmと、上野原遺跡の方が暗闇に包まれる時間も長い筈であり、上野原遺跡の縄文人が恐れおののいて、天岩戸神話のような色々なやり方で祈ったのではないでしょうか。
 
 1番目の仮説の難点である「噴火の降灰の最中に踊り祈る事など出来るであろうか」については、粒子の荒い降灰は早期に収束して、後はタンボラ山噴火時のスマナプ島のように粒子の細かい火山灰漂って日光を遮る状態が続いたのではないでしょうか。それなら踊ったり、祈りを捧げることが出来るかも知れません。
 
 また天岩戸神話では岩戸から天照大御神が劇的に出て来ますが、これも上空に風が吹いて灰が飛んだことにより青空が現れたのではないでしょうか。
 
 それより2番目の仮説の難点の「上野原遺跡の地にいた縄文人は脱出出来るのであろうか」ですが、富士山の宝永の噴火の際、麓の須走村では3mの降灰が有ったが村人の死者の記録は無いので脱出出来たとしましたが、この点に関しては検討が必要です。

 それでも脱出出来なければ仮説は成り立たないので脱出出来たとします。
 
 脱出は相当困難を極めたに違いありません。ガラス質の火山灰は吸い込むと呼吸器疾患を引き起こし、又高空に舞い上がった火山灰は前線を刺激して豪雨をもたらし、豪雨は山中に降り注いだ火山灰を土石流となってあらゆる物を押し流すからです。
 
 九州東側は火山灰が厚く降り注いだ為、脱出ルートは多分九州の西側を通って九州北部にたどり着いたと考えられます。何故なら長崎県や福岡県では、喜界アカホヤ噴火の降灰が有ったにも関わらず、縄文早期から晩期まで生活が続いたと思われる痕跡がある遺跡が有るからです(図3参照)。
 


   図3、縄文早期と前期の遺跡の推移(拡大)。
      南九州と四国西武は縄文前期の期間、遺跡が発見されていない。

 
 そして九州北部の地で数千年、天孫族は大陸から戦乱を逃れてきたボートピープル、即ち長江人と邂逅を果たします。

 長江文明は、4000年前頃の寒冷化による食料危機で蜂起した黄河流域の牧畜民の度重なる侵攻で滅亡したと考えられています。その為、長江人のY-DNAがO1b2a1aと考えられる人が日本、朝鮮半島、ベトナム、インドネシアに見られるのに、中国には雲南省の山岳地以外殆ど見つけられないのは、その地でホロコーストが有り、生き延びた長江人が四方に逃げた結果と考えられるからです(図4参照)。
 

 図4:アジアにおけるY-DNAの分布と長江人の脱出ルート(注5)。(拡大)。
注5:このY-DNA分布は現代のものですが、O1b2は中国周辺にいるが中国本土では山岳部に有るだけで殆どいません。そしてO1b2は世界で初めて水稲栽培を初めた長江人と考えられています。
 
 又長江人は水の民です。日本に稲作が伝わったのは、彼等は常に逃げられるように船に種籾も積んでいたからでしょう。と言っても黒潮分流の対馬海流に乗ったとしても対馬海流は最大で1.3kn、長江河口から長崎まで2週間ぐらいかかります。従ってこれについても検証が必要です。
 
 世界で初めて稲作、それも水稲栽培を始めた長江文明。土器の作成も縄文土器と同じくらい古い長江文明。この長江文明と縄文文明が北九州の地で邂逅したのです。
 
 しかし実は縄文人も長江人も落ちこぼれなのです。縄文人が日本列島に入ってきたのは、ナウマン象等の動物を追ってですが、むしろ後から来る人間との動物争奪戦に敗れて、追われるように日本列島に入って来たのです。従って縄文人のY-DNAは大陸に痕跡すら有りません。そしてナウマン象を取り尽くし、やむなく漁労採取の定住生活に入ったのが縄文時代です。
 
 長江人も同様、大陸の動物争奪戦、即ち中原に鹿を逐う戦いに敗れて、やむなく長江辺りでの漁労採取の定住生活に入ったのです。しかし必要は発明の母、長江人は世界で初めて水稲栽培を発明します。
 
 農耕の始まりが戦争と階級制度を生んだとのトンデモ説が流布されていますが違うと思います。長江人が牧畜民の侵攻により離散したように、中原に鹿を逐う言葉が示しているように、戦争文化は遊牧民の文化です。騎馬民族に至っては戦争が本業になりました。宦官・奴隷が遊牧民の発明だったように、階級制度も遊牧民が生んだ文化です。強い者が上に立たないと成り立たないのです。恐らく黄河文明は遊牧民が畑作民の上に乗る形で出来たのでしょう。
 
 それに対して定住は分業を生み出します。縄文時代に硬玉の翡翠を加工出来たのは、誰の指示を受けずに自由に仕事が出来たプロフェッショナルが居たからです。定住が長い縄文社会も長江社会もプロフェッショナル集団の共同体なのです。その結果、日本以外の国の人ではマネジメント志向の人が多いのに対して、プロフェッショナル志向の人が多いのが日本の特徴です。
 
 日本では強力なリーダが居なくても仕事が出来てしまう事が多々ありますが、それは縄文と長江の文明の性格を引き継いでいるからでしょう。大勢を纏める必要がある場合もありますが、そのとき必要なのは祭祀ぐらいです。正に天皇の役割ですね。
 
 そして九州北部の地で天皇の先祖が出会った長江人の一人が藤原氏の先祖の天児屋根命(アメノコヤネ)と思われます。藤原氏が常に天皇を補佐する形になったのは、天児屋根命が別の文明の知恵を持っていた為と思えば納得できます(注6)。
 
注6:天児屋根命の子孫のY-DNAはO1b2a1a。藤原鎌足の墓ではないかと言われる阿武山古墳の遺体のY-DNAもO1b2a1aです。天孫族と藤原氏の結びつきはこの時からですが、7300年前に長江人が上野原遺跡の地に居たとは考えられないので、天児屋根命がチャッカリ天岩戸神話に登場するのは、古事記・日本書紀を編纂するときに、藤原氏が無理やり付け加えたものと思われます。
 
 そして長江人から水稲稲作を教わった天孫族は、縄文晩期の寒冷化から一早く繁栄して他の部族を圧する程の勢力となります。瓊瓊杵尊(ニニギの尊)が天照大神から稲穂を持たされたのは、天孫族が他より早く稲作を行っていた証拠です。日本最古の菜畑遺跡等がそれを裏付けています。
 
 否、それ以前に天孫族は一大勢力だったでしょう。理由は信仰です。他の縄文人部族も自然崇拝の信仰のようなものを持っていたと考えられますが、間近に喜界アカホヤ噴火という強烈な体験をした天孫族の自然崇拝は、天孫族の団結を強固にして他を圧したとものと考えられます。従って天孫族の自然崇拝の中で一番重きが置かれているのが天照大御神であるのは、ただの偶然では無いでしょう。
 
 例えば天岩戸神話を日食に結びつける説が有りますが、日食による暗黒時間は最長で7分間です。古代支那等で日食を凶事と結びつける事例や、世界には日食だろうと思われる神話も有りますが、日食により太陽を最高神と崇める信仰が生まれた例はあるでしょうか。やはり喜界アカホヤの超巨大噴火と暗黒の世界の強烈な体験が天照信仰を産んだと思います(注7)。
 
注7:平安時代(915年)に起きた十和田カルデラの大噴火では、火砕流(毛馬内火砕流)が日本海まで流れ下り、神話ではありませんが八郎太郎と南祖坊の戦いの伝説が生まれました。インパクトのある災害ではこのような物語が生まれるのです。これだって火山に興味が無い人間が聞いたら只の御伽話と思うでしょう。
 
 只この仮説も3番目の難点の、5000年以上も記憶を継承出来るだろうかと思うと自信が有りません。例えば最古のヘブライ語の文字は紀元前1千年程。モーゼの出エジプト記が紀元前1600年頃だとすると、600年程度なら民族の記憶を継承出来そうですが、さて5000年は?と言われると、黙り込むしかありません。
 
 次は邪馬台国と卑弥呼の問題です。天孫族が九州北部で居を構えていたとなると、魏志倭人伝を避けては通れません。
 
 古事記・日本書紀の神代期の天岩戸神話までは天上の神樣同士の話のように見えますが、出雲の国譲りやニニギ尊の天孫降臨の話頃からは、何やら生くさい話になってきます。神が人間界に関与してくるのです。例えば国譲り神話です。
 
 出雲の国は荒神谷遺跡の発見等から弥生初期頃の存在が推定されており、その出雲の国を天照大御神は、国を譲って貰えと周りに指示しているのです。天孫降臨についても天照大御神はニニギ尊に稲穂を持たせたりと細かい指示を出したりと非常に人間くさいです。
 
 また稲作は縄文晩期か弥生初期から始まったものであり、天岩戸神話が7300年前の出来事とするこの仮説の立場としては、天岩戸神話の頃と天孫降臨の頃の天照大御神は別人格という事になります。
 
 従って魏志倭人伝頃に登場する天照大御神は想像上の神では無く人間ではでないでしょうか。天照大御神の代役がいたと考えられます。それに適任なのが卑弥呼です。卑弥呼は日巫女と読めます。日巫女は日神子とも書き、日神は天照大御神のことです。恐らく卑弥呼は天照大御神が憑依した巫女ではないでしょうか。
 
 魏使倭人伝では卑弥呼が女王となっていますが、「その国(邪馬台国)、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼といふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く」と、一女子を共に立て王と為すと書いているので、別に男の王が居た筈であり、「鬼道に事へ、よく衆を惑はす」と有るのだから、日の神が王以上の権威を持っていたとするなら、日の神が憑依した卑弥呼が邪馬台国の王に指示していたと思われます。
 
 邪馬台国の国名ですが、邪馬台国は邪馬壱国の間違いである説の方が有力なようですが、後漢書には邪馬台国の記述があるようなので、敢えて邪馬台国とします。理由は邪馬台国はヤマト国の当て字か読み間違いとしたいからです。つまり、この度の仮説では南九州から北九州に逃れて来た天孫族が北九州でヤマト王朝を設立した事が前提になっているからです。
 
 また邪馬台国が貰っている筈の金印については、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印こそが邪馬台国が貰った金印でしょう。委の奴の国王と読むから可笑しな話になるのです。
 
 委奴国とは、狗奴国が犬野郎の国の意味と同様、小人野郎の国の意味です。従って委奴の読み方はワヌです。この点については韓国人の方が理解しています。彼等は日本を蔑むとき、日本の事を屡々委奴(ワヌ)と言います。周辺国を蛮族と思っている中国の歴代王朝が良い名称を与える訳がないのです。
 
 それでも北九州に金印を貰える程の倭国最大の国が存在し、それが邪馬台国、即ち後の日本であるヤマト国であることは間違いがないでしょう。
 
 この辺は論争の種になるので避けたい処ですが、日本書紀にも「神武東征が日向を発ち」と書いてあるので、ヤマト王朝が九州に有った説を譲る訳には行きません。
 
 でも「邪馬台国も卑弥呼も古事記・日本書紀に記載が無いではないか」の意見もありますが、これ等はヤマト朝廷にとっては黒歴史、倭国の名や朝貢をしていた事を恥じるようなヤマト朝廷が載せる訳が有りません。
 
 卑弥呼についても「鬼道に事へ、よく衆を惑はす」と書かれている処を見ると、当時から問題視する倭人が居たのでしょう。当然正史である日本書紀に書ける訳がありません。
 
 但し天照大御神が憑依してニニギ尊を天孫降臨させた南九州の地等については、ニニギの尊が「此処は俺達の神聖な土地だ」と言っても丸く収まった訳では無く、エルサレムを巡る紛争と同様、紛争地帯となり、ヤマト朝廷が武力で解決するはめになりました。
 
 これら黒歴史は有ったとしても、日本は先住民の王朝が築いた継続する世界最古の国であり、世界的規模の噴火を元にした神話と、それに伴う7000年前に生まれた世界最古の宗教を頂く国であり、これまた世界最古の縄文文明と長江文明が合体し、その文明を継承している国であると言えるでしょう。
 

天皇の遺伝子3

今日のタイトルは『天皇の遺伝子3』としているが、記事は天皇の遺伝子の話では無い。
 
有名人のハプログループ』のサイトを覗いたら「評論家・崗上虜囚のY染色体は、ハプログループD1b1a2b1(D-CTS3397)である」と私の事が載っていた。しかし(D-CTS3397)は間違いで、私の正しいハプログループは(D-CTS1982)なのだが、連絡をしようが無かったので天皇関係のエントリーにしておけば、目に留まるかと思って題を『天皇の遺伝子3』とした次第である。
 
因みにD1b1a2b1としたのは『familytreedna.com/』に(D-CTS1982)がD1b1a2b1a...Z1500+と書いて有ったので、端折って書いてしまった次第。
 
『familytreedna.com/』では私と同じD-CTS1982に韓国人男性が一人いた。菅原道真は出雲出身であるが、出雲神話には『国引き神話』が伝承しているので、ひょっとしたらその韓国人男性の先祖は、出雲の国が新羅に足掛かりを持っていた頃に新羅に赴いた菅原道真の縁者なのかも知れない。
 
ついでに母親のミトコンドリアの方は(B4F)である。ナショナル・ジオグラフィックでは「この古いアジアの系譜のメンバーは、ほぼ完全に北部日本に限られています」と有った。
 
        
     
      火山噴火に対する稲妻
 
噴火に稲妻は付き物である。天皇家を縄文系だろうと睨んだのは古事記の伊奘諾尊が黄泉国で伊邪那美尊に会う下り、「頭に大雷居り、胸には火雷居り、腹には黒雷居り、陰には拆雷居り、左の手には若雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴雷居り、右の足には伏雷居り、」は噴火と稲妻の描写ではないか思ったからである。
 
そう思ったのは私だけでは無い。破局噴火を描いた小説『死都日本』の作者石黒耀氏も小説の中で「古事記に噴火活動について書いたと思われる描写が何カ所かある」と指摘している。黄泉国のシーンもそうであるが、天照大神が天の岩屋に隠れるシーンで昼夜の区別がつかなかったのは、噴煙が空一杯に覆われていたからのように思える。
 
さらに石黒氏は、須佐之男命が伊邪那美尊が黄泉国に行ってしまわれたことで泣き喚くと「悪しき神の声、『狭蝿』の如く皆満ち」とか、天照大神が天の岩屋に隠れるとき「ここに万の(邪)神の声は『狭蝿』なす満ち」にある『狭蝿』を(降り注ぐ)火山灰に置き換えれば、これ以上適切な表現はないと主人公に言わせているのである。
 
これだけダイナミックで恐ろしい噴火を経験しているのだから、それは約7300年に起きた喜界カルデラの破局噴火に結び付けたくなるがどうだろう。9000年前から7500年前の縄文時代の遺跡である上野原遺跡の所在地は霧島市、喜界カルデラの噴火の火砕流が目と鼻の先で止まっている所である。霧島市近辺は殆ど全滅だろうが、若し生き残る事が出来た縄文人が居れば、とてつもない経験をした事になり、その経験は神話として代々受け継がれていても可笑しくは無い。
 
しかし古事記が書かれたのは西暦712年。文字も無かった時代に7000年前の記憶が受け継がれてきたとは到底思えないので、古事記に描かれているのは霧島連山か阿蘇山等の比較的大きな噴火なのだろう。
 
だとすれば、その記憶を受け継いできたのは長江人かも知れないし、朝鮮半島から渡って来た人かも知れないのではないかと言われるかかも知れないが、長江人は命からがら三々五々東シナ海を渡ってきたのを、恐らく縄文人が助けたので生き延びられたと人々と思われるので、彼らが縄文人を含めた集団の長になり、古事記の主人公になったとは思われない。
 
また長江人と思われるY-DNAは日本人がO1b2a1a1が主流で、朝鮮半島や満州(注1)の人のY-DNAはO1b2a2が主流で、同じ長江人でも日本と朝鮮半島では部族が違うと考えられる。従って朝鮮半島から来た長江人が主人公になり、噴火の記憶を受け継いで来たのも考え難い。次に多い集団である朝鮮半島で主流の漢族のY-DNAのO2の人々は日本ではパーセンテージが低いので、これも長江人の例と同じである。日本では縄文人のD1bのY-DNAが一番多いのである。
 
従って古事記は縄文人である天皇一族が記憶を受け継いで出来たものであると推測出来る。つまりこれ等の情報だけでも天皇は縄文系となる。
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注1:長江人と思われるO1b2のY-DNAの人が何故満州にいるかと言えば、モンゴルが高麗に要求した数十万人の奴隷が長江人だったのではないだろうか。全羅道はかって馬韓があった地域、長江人のボートピープルが流れ着いたであろうと推測される地域である。そして今でも差別される地域でもある。そう考えると奴隷に差し出されたのは全羅道にいた長江人が多く、モンゴルは彼らを満州で使用し、満州のO1b2はその子孫ではないだろうか。
 

天皇の遺伝子2

Y-DNAは父から息子に伝えられる男性だけの遺伝子ですが、近年遺伝子検査技術が簡便になったため、天皇のY-DNAについての情報が色々出ています。例えば東山天皇の複数の子孫のY-DNAがD1b1a2(D-IMS-JST055457)、崇光天皇を先祖とする伏見宮家の子孫のY-DNAがD1b1a2(D-IMS-JST055457)、その他どのようなサンプルか不明ですが、継体天皇、桓武天皇、後村上天皇、近衞文麿のY-DNAもD1b1a2(D-IMS-JST055457)なので、かなりの確立で天皇の遺伝子はハプログループD1b((D1b→D1b1→D1b1a2)から分岐した系統のようです。
 
ハプログループD1bは、従来の分類法ではD2の系統名称で呼ばれていましたが、日本人男性の中に30%~40%存在する遺伝子です。又D1bは、近縁のD1aがチベット等にいますが、世界で日本列島とアンダマン諸島にしか見られない極めて稀な遺伝子です。従って天皇の遺伝子は、日本列島の先住民である縄文人の遺伝子と考えられています。
 
それにしても日本国の象徴、日本の国体、即ち日本の長である天皇が、日本列島の先住民である縄文系で有った事は凄いことです。何故なら世界の歴史は、後からやって来た民族が、先住民族を迫害し、又は奴隷にし、あるいはホロコーストをしたりして、国/土地を乗っ取った歴史でもあるからです。
 
例えばアメリカ。北米には先住民のインディアンが『土地や自然は皆の物』の考えの下、極めて民主的で平穏な暮らしを営んでいましたが、そこに15世紀に白人がやってきます。インディアンは『全ての物は皆の物』の精神の下、白人に物を分け与えます。ところが結果はどうでしょうか。
 
RACE, ANCESTRY, AND GENETIC COMPOSITION OF THE U.S.
アメリカの2億1500万人の69%が白人で、500万人のアラスカの先住民を含む約3400万人がアメリカの先住民人(13.6%)ですが、遺伝的にはほとんど白人です。下の表のように先住民人男性のY-DNA遺伝子を受け継ぐ人は3%しかいないのです。
  Y-DNA  人口  人口比%  出身地
    R1b      156     50       西ヨーロッパ
    E           43     14       アフリカ
    I            44     13       中欧
    R1a        16       6       東欧
    J            14      5       南欧、中東
    G            12      4       南西アジア
    O            10      3       アジア
    Q              9      3       先住民
    N              2     0.7      バルト諸国、シベリア
    M            0.5    0.2      太平洋諸島
 
これはアメリカの例ですが、南米も同じでしょう。アメリカ大陸の殆どの先住民の男性は子孫を残せなかったのです。
 
これはアメリカ大陸だけで起きた事ではありません。例えば旧約聖書の民数記・第31章を見て下さい。「ミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した」、「女たちとその子供たちを捕虜にし」、「この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい」、「まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい」。これが世界で常識だったのです。勿論アジアでも同じす。
 
母親だけから伝わるミトコンドリアDNAにも色々のハプログループの系統が有りますが、その比率は日本列島とアジア大陸で大した違いがありません。それに対してY-DNAのハプログループの系統の比率が違うのは、旧約聖書の民数記と同じことがアジア大陸でも行われていたからです。つまり大陸では、殆どの女性は生き残びて子孫を残せるチャンスが平等にありましたが、男性は子孫を残せるチャンスが平等では無かったのです。
 
ところが日本で大陸では殆ど見かけないか、偏狭な地に追いやられているようなY-DNAハプログループが、堂々と日本国内の何処でも粗一定の割合で存在するのです。しかも現在、それらの人は、単一民族とも言われる日本人の構成要因になっているのです。
 
それは先住民の下、秩序ある他民族の受け入れが行われたからでしょう。そしてその秩序は日本列島の先住民に長がいたから生まれたからではないでしょうか。その長が天皇です。
 
民族は何故移動するのか。それは食料や気候などのより良い環境を求めての移動の場合もありますが、危機、民族が滅亡するかも知れない危機から逃れる為に移動する場合もあります。歴史を鑑みれば、その危機はホローコーストのような危機だろう事は、容易に想像できる筈です。
 
長江人と思われるハプログループO1b2(旧O2b)は朝鮮半島や日本列島を主に満州や東南アジアにいますが、大陸に殆どいません(注1)。又日本のハプログループD1bと近縁のD1aの民族がチベットのような高地に追いやれていることを見れば、それが人間が起こした危機によるもので有った想像できる筈です。否、想像しなくても現にチベット・ウィグルで今正に起きている事です。
 
 
これらの事を敢えて無視し、ミトコンドリアDNAのハプログループ等のみに着目して、昔は国家など無く、民族も無く、世界がグローバル化していたように言う学者がいますが、彼等は学者と言うより特定な思想(グローバル主義)のスポークスマンでしょう。特にそのような学者は『混血』等の言葉を好んで使い、ホロコーストが起きてきたことを曖昧にします。
 
ともあれ、大陸で希少になったY-DNAの民族も受け入れ、和して一つの民族国家となった日本は、世界でも希有な国です。その希有な国が2000年以上の長きに渡り継続してきたのは、先住民の長、即ち天皇を頭に置き、民も秩序を重んじ、後から来た民の勝手を許さなかったからです。本来なら日本は世界の模範となるべき国です。その為か、近年欧米人の中には、自国の無秩序の移民政策による民族間の紛争に悲観してか、日本に羨望し或いは期待している人が増えています。
 
処が日本では、帰化しても日本国民になりきらず、出自の仲間と結託して日本から天皇を無くそうとする輩や、出身国と連携して日本乗っ取りを画策している者が多数います。馬鹿々しいことに、天皇が存在している事の有り難味も分らず、彼等に協力して日本を壊そうとする日本人もいるのです。このまま行けば、日本は世界の模範どころか、過去のアメリカ大陸で起きていた、後から来た民族による先住民への迫害が、日本でも始まるでしょう。
 
  BC14000 長江文明開化  旧O2b+旧O2a
  BC4500   河姆渡城陥落  旧O2b1の流入
  BC2500   良渚文化滅亡  〃
  BC1000   弥生時代         旧O2b*+旧O3の流入
   AD200    邪馬台国
   AD300    古墳時代    
   AD660    百済滅亡         旧O2b*+旧O3+旧C3の流入
   AD668    高句麗             旧C3+旧O3の流入
新しい系統名称では、旧O2b1がO1b2a1b、旧O2b*がO1b2a1a2a、旧O3がO2、旧C3がC2になっています。
BC4500年頃からから7世紀の間の民族移動の概念図
 
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ついでに。『文化・歴史』のカテゴリーではY-DNAを度々扱ってきましたが、自分のY-DNAも調べてみました。結果はD1b1a2b1(旧D2タイプ)D1a2a1b2a1...(D-CTS1982)(注:2023/09/08修正)縄文系でした。
 
子供の頃に父親から「先祖は菅原道真で、戦国時代は岡山県新見市のとある城主で有ったが、尼子氏-毛利氏の抗争で尼子側に付いた為に毛利に滅ぼされた」と聞かされ来たので、一度祖父(祖父は次男)の実家を訪れたところ、先祖は岸本城城主吉岡道秀であることが分りました。
 
先祖が吉岡道秀であることが分ったのは、実は落城のときに兄弟で落ち延びて、兄にあたる子孫が同じ市に住んでいたのです。向こうはこちらを知っており、道秀の子が落ち延びたとき、兄は道秀の位牌を持ち、弟は観音像を背負って落ち延びたとの言い伝えがあったそうで、事実祖父の実家には観音像が有り、近年と言っても大分前ですが、その胎内から鎧観音が見つかり、又位牌の戒名も『賢休院殿右近道秀清居士』と『殿』が付いているので道秀が城主であったことは間違いないようです。
           
                  
鎧観音
 
では何故自分の遺伝子を調べる気になったかですが、菅原道真は天孫族の天穂日命の子孫(天穂日→出雲国造家→野見宿禰→菅原道真)と言うことになっていますが、それとは違い、菅原道真は出雲族の長である大国主命の直系であるとの説を唱える人もいますので、ひょっとしたら菅原道真の系譜も分るかも知れないと思ったからです。
 
出雲国造家についてはD1b2a(D-CTS220)の情報もありますが定かではありません。この情報が正しかったとすると、同じ天孫族でも天皇の先祖と天穂日命の先祖はハプログループD1系統ですが、2万5千年程前にようやく同じ先祖にたどり着けるの程離れており、天穂日命は天皇の先祖である天之忍穂耳命の兄弟では無さそうです。尤も神代の話なので、2万5千年前の出来事なのかも知れません。
 
結果として私の遺伝子(D1b1a2b1D1a2a1b2a1)は、同じハプログループD1b1D1a2系統ですが、天皇の遺伝子(D1b1a2D1a2a1b)や出雲国造家の遺伝子(D1b2a)と違う結果になりました。菅原道真が大国主命の子孫で、出雲族も縄文系だった可能性も出てきたのです。それが正しければ「出雲族は渡来系」の話も無くなります。
 
と言っても、自分も吉岡道秀さえも、菅原道真のY-DNAを受け継いでいる確証など有りません。日本では男子に恵まれなければ養子で家を継ぐことが普通だからです。それでも誰かが菅原道真の系統を調べる事があれば、私の遺伝子情報も統計上のサンプルの一つとしてお役に立てる筈です。また岡山の片田舎にD1b1a2b1D1a2a1b2a1の男性が居たことの情報も、何かの役には立つでしょう。

一番美味しい日本料理は?

一番美味しい日本料理は?。それは『ご飯』である。「ご飯が料理か?」と思う人がいるかも知れないが『炊く』等の『ご飯』を作るときしか使わない言葉が有るのを見て分るように、『ご飯』は立派な料理である。当然炊き具合によっても味が落ちるし、日本料理の特徴である素材、即ちお米を厳選しないと味が落ちる。
 
欧米人の中には「ただ煮れば良いのに電気釜を買う人間の気が知れない」とか「こんな味のないものとか」と言う人間がいるが、恐らく味音痴の人なのであろう。
 
その点、電気釜を秋葉で爆買いしていた支那人は味が分っているようである。「日本のご飯は何故か美味しい」と言っていたシンシアリーと言う韓国人も味が分っているみたいである。
 
それでも支那人も朝鮮人も米を炊く料理法は思いつかなかった。第一、漢の皇帝でさえ米の『ご飯?』を食べるのがままならなっかった時代、日本では『豊葦原の瑞穂の国』と天皇も国民も一緒に米を追及していたのである。
 
散歩道にある小さな田圃。美味しいお米を作ってくれる人に感謝です。

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