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崗上虜囚の備忘録

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金閣寺がとくに変です!!!
ビックリしました。

Re.楽仙堂様、智の劣化。禅宗お前もか。

スミマセン。チェックしてませんでした。

>金閣寺がとくに変です!!!

真宗大谷派なんか昔からです。最近はカトリックも変です。みんな乗っ取られたんですね。あの民族と、あの民族に。

智の劣化。禅宗お前もか。

このブログでは度々禅のことを取り上げており、サヨクの洗脳予防には禅をやるのが良いと言ったかもしれないが、ところがなんと曹洞宗の永平寺はサヨクの巣窟になっていたのだ。
 
曹洞宗の管長は永平寺の貫首の福山諦法禅師。その曹洞宗のホームページには人権・平和・環境のページがあり、例えば平和ページにはサヨクお決まりの「過去に関与した侵略と植民地支配について謝罪」などが書いてある(注1)。
 
禅の修行の目的は解脱した釈迦やダルマと同じ境地に至る事、つまりあらゆる洗脳から解放されることが目的なのであるが、曹洞宗の坊主共は解放されるどころか一般人以上に洗脳で囚われの身になっていたのである。
 
曹洞宗だけでは無い。金閣寺で有名な臨済宗相国寺もサヨクの巣窟のようである(注2)。なんでこうなったかと言えば、相国寺では外部から人を招いて講義してもらう研修会を定例的に行っている(注3)のだ。こんな処に問題の本質があるようだ。
 
何故かと言うと禅の修行は解答を外に求めず、ひたすら自己と向き合うことで解を得るのであるが、相国寺の坊主共は人から学ぶことで解答を得られると思っているのである。
 
と言っても禅寺は徒弟制度の世界、師の役割も重要である。例えば禅語には『?琢同時(そったくどうじ)』の言葉がある。これは卵が孵化してヒナ鳥が殻を破って出ようとする瞬間、親鳥も外側から卵をつついてヒナ鳥が外に出るのを助ける様を言い表す言葉である。
 
自分で殻を破って悟りを得る弟子もいるが、誰かのちょっとしたヒントが悟に繋がる場合もある。そこで禅宗の師の役割は親鳥と同じ、弟子達を注意深く見守り、機が熟した者がいれば棒・喝・etcなどなどのヒントを与えて弟子が悟ることを助ける役割となる。
 
当然のこと、親鳥の役割をする禅寺の師は悟りを得ている事が前提である。ところが永平寺や相国寺の師共は、赤い眼鏡を掛けなければ世の中何も見えないと思っている輩である。勿論、悟りの境地に達していない凡俗であろう。赤い眼鏡を掛けていたら弟子に悟る機が熟しているか否かなど分る訳がない、結局は師弟共々赤い眼鏡を掛ける羽目になるだろう。
 
以上なことから禅に興味を持ったとしても、間違っても修行の場所に曹洞宗や臨済宗相国寺派の寺などを選べきではないだろう。まあ本屋に行けば禅の古典など幾らでも出ているし、立ち読みして感ずるところが無ければ未だ機は熟せず、己は洗脳の海に浮沈していると思って間違いは無い。それでも『臨済録』『無門関』『碧眼録』などの古典を買っておいても損は無い。何れ機が熟せば買った本から臨済や趙州が降臨して喝を入れてくれる筈である。
 
私事を言えば、ちょうど二十歳のとき浅草寺の傍の古本屋で『碧眼録』を買ったのが禅の古典に接した最初である。その後『曹洞宗聖典』なる本も買ったのだが、内容は全然記憶していない。内容は記憶していないが、日本の曹洞宗の祖と祭られている道元が悟っていないのではないかと疑念を持ったことだけは記憶している。
 
悟りの世界は全否定から全肯定の世界である。つまり何でも有りの世界。なので道元が「威儀これ仏法」などと言のも有りかなと思ってほっぽらかしていたのであるが、曹洞宗の現状を見ると道元は宋で悟りを得たのでは無いかも知れない。
 
日本に伝わっている禅宗は南宗禅であり曹洞宗も南宗禅の一派であるが、曹洞宗は他の南宗禅と異なり公案をそれほど重視せずに『只管打坐』とひたすら座禅する事を薦める等、その宗風はむしろ北宗禅に近い。道元はその曹洞宗を学んで帰国したのだ。
 
此処で北宗禅と南宗禅を説明するが、禅宗は五祖の弘忍の下で慧能を祖とする南宗禅と神秀を祖とする北宗禅に分かれる。慧能が弘忍に弟子入りしたのは、巷で誰かが口ずさんだ『金剛経』の中の一節「応無所住而生其心(まさに住するところ無くして、その心を生ずべし)」を聞いことによる。慧能は文字も読めないので雑用僧として飯炊きなどしていたが、そこにある日、弘忍が弟子達の力量を試すため、うまく詩に表せた者を後継者と認めようと言い出した。
 
そこでまず筆頭の高弟である神秀が
  身は、是菩提樹
  心は、明鏡台の如し
  時時に勤めて、払拭せよ
  塵埃を惹かしむる勿れ
と書いたところ、慧能は
  菩提、本、樹無し
  明鏡、亦、台にあらず
  本来無一物
  何の処か、塵埃を惹かん
と書いた。
これを見た弘忍は慧能を後継者と認め衣鉢を慧能に託したが、慧能は寺を去った。その慧能の力量を知った者が弟子入りして広めまったのが南宗禅であり、簡明であることから南宗禅は大いに栄えた。
 
一方神秀はそのまま寺に留まり、修行を積んで北宗禅の祖となった。その宗風は『漸々修学』として知られている。
 
その北宗禅であるが、「鏡を拭き塵を払うので禅などやってられません」とでも書けば神秀は弘忍から及第点を貰えたのであるが、かと言って北宗禅の『漸々修学』が間違っている訳では無い。悟りを得なくても「塵を払わん、垢を除かん」と言ってひたすら巣掃除を行って終に悟りの境地になった周利槃特の例もある。逆に悟りを得ても漸々修学を行わなければならないのである。その事はエントリー『禅・達磨の目2』でも書いた。
 
従って曹洞宗の『只管打坐』も間違いでは無い。しかしだからと言って赤い色眼鏡を掛けて、わざわざ弟子達を赤い塵に塗れさせることはないではないか。その可笑しさが分らない弟子も弟子である。
 
臨済録に、ある寺の住職に臨済が「喝!」したが住職はその意味が分らなかった処、その寺にいた500人もの雲水の大半がその寺を去った話が載っている。唐時代の僧達はそのくらい真剣だったのである。
 
多くの支那人が真剣に取り組んで作り上げたのが禅である。日本文化はその恩恵に預っていると言えるだろう。ところがどうだろう。現在の曹洞宗などの例を見ると、とても真剣に禅を継承しているとは見えない。
 
不真面目。思考の不徹底。他力本願。東大、京大に続いて禅宗も智の劣化である。
 
    
 
おい曹洞宗!。我が曹洞宗はLGBTに寛容だと書かないのか。

注1:曹洞宗ホームページ
注2:金閣寺、おまえもか!
注3:臨済宗相国寺派
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Re.楽仙堂様、智の劣化。禅宗お前もか。

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