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崗上虜囚の備忘録

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オリンピック作戦、その1

今日のエントリーは『オリンピック作戦』であるが、『東京オリンピック』の事では無い。『オリンピック作戦』とは、大戦末期に連合国軍が計画していた日本本土上陸作戦の『オリンピック作戦』と『コロネット作戦』、総称して『ダウンフォール作戦』の前哨戦である九州上陸作戦のことである。
 
このエントリーは数年前から終戦記念日に載せようと構想していたのだが、ようやく取り掛かる事が出来た。チラシの草稿にするつもりでも書いたのだが、構想とは裏腹に文字数は多すぎるし、内容も複雑すぎて意味不明の文章になってしまった。それにとてもA3裏表に収まりそうもない。仮にチラシに出来たとしても、受け取った人は「なんじゃこれは」になるだろう。ま良いか、備忘録なんで。
 
オリンピック作戦、その1
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未だに先の大戦を「日本は無謀な戦争した」、「軍部が暴走して起こした戦争」、「無能な指導者の為に、国民が塗炭の苦しみを味わった」と言う人がいるが、何れも一知半解か無責任の人間の言葉としか思えない。では日本が当時の状況下に置かれていたとき、若し諸君が日本指的立場の人だったら、若しくは諸君の言葉が日本の命運を左右するとしたら、どのような選択するのだろうか。
 
方法論を聞いている訳では無い。戦うか戦わないかのどちらを選択するかである。なので難しくは無いはずなので、是非考えて抜いて答えてもらいたい。
 
戦争を仕掛けたのはアメリカ
結果として日本は『ハルノート』を見て日本は戦争の道を選んだのだが、少なくても当時の軍人でも政治家でも、指導者レベルの人間なら戦争になれば日本が負けるのは分っていた。それなのに何故日本は戦争への道を選んだのか。それは戦争をしたいのはアメリカ側だったのが分っていたからである。事実、近衛内閣のブレーンだった共産主義者の尾崎秀実が支那事変を煽ったように、F・ルーズベルト政権にも数百人もの共産主義者がおり、共産主義者が牛耳る新聞等と共に、厭戦気分のアメリカ国民を騙し、日本との戦争を画策していたのである。
 
それどころでは無い。真珠湾以前に日米戦争は始まっていたのである。例えばフライングタイガースは日中戦争時に中国国民党軍をボランティアで支援したアメリカ軍人パイロットAVGの愛称であるが、その戦闘機や弾薬はボランティアで送られた物ではない。F・ルーズベルト大統領の指示の下、アメリカ軍が主体となって仏印(ベトナム)やビルマ(ミャンマー)を経て輸送したのである(図1の中央、参照)。名目は日本の侵略に困っている中国の支援であるが、ルーズベルト大統領は日本に最初の一発を打たせる為に、日本近海に巡洋艦を出没させることも提案しており、実際にそれは実行され日本海軍も豊後水道にアメリカの巡洋艦らしき船が近づいたことを確認している。つまりF・ルーズベルトは何がなんでも日本と戦争したかったのだ。
 
アメリカ人の中にもルーズベルトが戦争したかったことを見破る人もいた。ルーズベルトの不可思議な行動を調べ上げ、ルーズベルトはアメリカ国民を騙したと非難したコロンビア大学の歴史教授チャールズ・A・ビーアド、『ハル・ノート』の存在を知り「あの戦いの真実は、ルーズベルトが日本を挑発したことにあった」と言ったハミルトン・フィッシュ上院議員、「ルーズベルトがわが国を戦争に引き込もうとしたのは疑いない」と言ったハーバート・フーヴァー第31代大統領などである。
 
ではルーズベルトが日本と戦争をしたかった本当の理由は何だったのか。ドイツと戦っているイギリスを助けたかった、ルーズベルト自身も共産主義者にシンパシーが有り、ロシアを助けたかった等とよく言われており、勿論それもあるだろう。だがルーズベルトが人種差別主義者だった事の方を注目すべきではないか。
 
例えばルーズベルトは、駐米英公使ロバート・キャンベルに、アジア系人種とアーリア系人種を交配させて、それによって極東に文明社会を生み出していく事を提案しており、さらに「但し日本人は除外し、元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」と語っているのだ。それにしてもルーズベルトは、人種交配政策で何故日本人だけ除外したのかのだろうか。
 
それは日本人が奴隷に向かないからである。白人に反抗したアメリカインディアンも奴隷に向かないとされ、虐殺され抵抗力が無くなると隔離政策が取られ、その結果コロンボスがアメリカ大陸を発見した頃には2000万人程いたと思われるインディアンの人口は30万人程になったのである。そしてインディアンに行われた最後のホロコースト、即ち餓死はインディアンが武器を置いた後に行われたのだ。
 

図1、[左]バイソンの頭蓋骨の山、[中]ビルマから中国に輸送される戦闘機、[右]大崎町の陣地
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図1の左は1870年頃撮影されたバイソンの頭蓋骨の山であるが、これはただのハンティングの結果では無い。米国内務長官のコロンブス・デラノによるインディアン政策の結果である。デラノ内務長官はバイソンを殺すことでインディアンを鎮め、移住させ保護することが白人文化への同化を進めると説明しているが、実際は「隔離し衰えさせる」ことが目的だったのだ。因みコロンブス・デラノはルーズベルトの母方の縁者である。
 
ルーズベルトのような人種的偏見は、ハリー・トルーマン大統領も同じであった。原爆投下を知ったキリスト教会連邦議会からの疑義の電報に対して、トルーマンは「原子爆弾が獣に分らせる唯一の言葉だ」と返事を書いている。後日、原爆投下に対する批判を抑えるために「原爆が戦争を早く終結させた」との神話を作り出したヘンリー・スチムソン陸軍長官も人種差別者である。日系人強制収容政策の最高責任者は彼だったのだ。要するにアメリカが言う『太平洋戦争』の主たる目的はインディアンと同じく、日本人絶滅なのだ。
 
しかし絶滅させる前に足りない事がある。それは屈服の儀式である。アメリカは原爆投下をされても日本は最後まで戦うと思っていた。何発原爆投下されても、海上封鎖で餓死することになってもである。だとしても日本が屈服しなければ気持ちが治まらないのだろう。そこで考えられたのが日本本土上陸作戦、即ち『ダウンフォール作戦』である。
 
第一段階の『オリンピック作戦』は1945年11月1日に、米第6軍が南九州の3分の1を占領して空軍基地と海軍基地を確保し、そこを基点に第二段階の1946年の3月頃に3個軍が東京・横浜地域を占領する『コロネット作戦』に移行する筈であった。
 
日本の決意
一方日本側でも、1945年1月頃に本土決戦の概念が固まり50個師団の増設を打ち出したのである。と言っても如何せん、年寄りの新兵をかき集めても充分な武器は無く、武器も粗製乱造で行くしかなかった。そこで考えついたのが全軍特攻である。粗製乱造の武器でも使い方しだい。一人一殺戦法なら上陸軍より数で勝るし、勝てないまでもアメリカに重症を負わせる、つまり一矢を報えると考えたのである。
 
海軍の計画では1945年9月までに、蛟龍73、海龍252、回天119、震洋2150、伏龍200?を生産し、『オリンピック作戦』が行われる頃には、陸海の航空機は凡そ1万機が本土決戦用に準備された筈である。性能が左右される航空戦など、はなから無視である。特攻なら旧式飛行機でも十分戦力になるとされたのである。
 
沖縄戦では1827機の航空機による特攻が行われたのだが、本土から600km以上も離れており、特攻機はレーダに補足されて戦闘機が待ち構えたところに突っ込まなければならなかった。また特攻機が狙ったのは航空母艦など強力な対空兵器がある艦船である。当然特攻機の損害が増えても戦果は上がらない。硫黄島の戦いでは1000km以上離れているので航空機による大規模な特攻は使えなかった。
 
では島を防御する地上軍が上陸部隊を叩けるかと言うと、沖合の戦艦が巨砲を打てば島の反対側のはるか向こうを飛び越してしまうような小さな島に一重二重に艦船が取り巻いているので、一番脆弱な上陸部隊を叩くことが出来なかったのである。戦艦の主砲弾は一発1トン以上、それを1隻で1000発程度搭載しているので、戦艦1隻で一式陸功1000機分に相当する火力である。防御する地上軍が上陸部隊を1回だけ叩けたとしても見つかったら最後である。
  
ところが本土決戦では隠匿した飛行場から一山越せば戦場である。さらに今度特攻機が狙うのは航空母艦などでは無く、輸送船やLST及び上陸用舟艇である。ここに至って日本軍はようやく米兵を殺す作戦に転じ、地の利を生かした水際作戦が出来る環境も得られたのである。海中でも沖縄戦や硫黄島戦で出来なかった大々的な特攻が行われ、陸でも戦車には刺突爆雷、布団爆弾での特攻である。
 
日本軍の基本的な戦法は、硫黄島で行われた上陸を許して敵味方入り乱れた白兵戦にすることで米軍の有力な艦載砲を封じる戦法が柱であるが、今度はそれに水際特攻作戦が加わるのである。更に後方の霧島山中に決戦部隊を配置し、頃合を見て白兵戦に加わるのだから当然米軍の損害は甚大になる筈であった。それは戦後米軍によっても認められているのである。
 
そして日本側は、米軍は1945年11月初旬に必ず南九州を占領し、次に関東地方に上陸する筈と予測し、準備を始めたのである。日本側の予測は『オリンピック作戦』及び『コロネット作戦』の、米軍が上陸を予定した場所と侵攻時期がぴたり一致した。これは『マッカーサー参謀』とあだ名された堀栄三少佐のいた第6課米国班の分析によるところが大きいと思われる。
 
 
図2:オリンピック作戦(南九州の戦域) <拡大
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南九州に展開する日本軍の布陣は以下である。
第57軍 大隅半島
 第156師団 樋口敬七郎中将(本庄方面)
 第154師団 二見秋三郎少将(日向灘沿岸)
 第212師団 桜井徳太郎少将
 第 86師団 芳仲和太郎中将(志布志方面)
  独立混成第98旅団 
  独立混成第109旅団
  独立戦車第5旅団  高沢大佐(3式20輌+10))
 第 25師団 加藤怜二中将(都城後方)
  独立戦車第6旅団(1/2) 松田大佐(都城後方)3式10輌
 
40軍 薩摩半島
 第 77師団  中山政康中将(国分方面) 北海道から転出
 第146師団  坪島文雄中将(川辺方面) 
 第206師団  岩切秀中将(伊作方面)  機動打撃師団
 第303師団  石田栄態中将(川内方面) 速成師団
  独立混成第125旅団 倉橋尚少将
  独立戦車第6旅団(1/2)3式10輌 
 
決戦兵団 4個師団+戦車6個連隊、3式40輌程?
 第 57師団 矢野政雄中将(福岡) 関東軍精鋭 
 第216師団 中野良次中将(熊本) 機動打撃師団
 他2個師団
 
その他、大本営では関東地方に展開する最精鋭の36軍を九州・四国に進出させるべきとの考えに傾きつつあった。恐らく36軍は九州に駆けつけたであろう。何故なら九州で決戦を行った後、日本は燃料が枯渇しているのである。決戦のチャンスは一度しかないのだ。
 
決戦が行われる南九州では地下道・洞窟陣地(図1右)、特攻機や特攻舟艇などの秘匿壕が婦女子によって掘られており、粗完成の域まで行っていた。また秘匿飛行場も95を超えていた。この準備が出来たのは、あの桜島より小さな硫黄島の戦いで1月も持ちこたえ、沖縄戦でも2月も持ちこたえた将兵の決死の戦いが有ったからである。
 
若し計画通り『オリンピック作戦』が行われていたら、3昼夜の空と海からの特攻により米軍上陸部隊の何割かが海の藻屑となり、アメリカ側の見通し「上陸側の兵力は防御側のは3倍あるので過大な死傷者を出さなくても済む」の目論見は大きく崩れ、陣地で待ち構える同数の兵力と戦う羽目になるのだ。更に大本営では本土決戦の為の精鋭、36軍も投入する予定なので、そうなれば日米の戦力は完全に逆転する。
 
硫黄島の戦いでは、守る日本軍2万に対して上陸部隊7万5千と3倍以上あったが、米軍の死傷者は2万8千以上になったのだから。日本軍の方が多いとなると米軍の死傷者は15万どころではないだろう。下手をすれば上陸部隊は全滅と言うこともあり得る。
 
 
図3、本土決戦に備えて温存されていた三式中戦車[上段左]。恐らく数10輌の四式中戦車[上段中]も投入した筈である。75mm砲を搭載したキ-109[上段右]。本機はB-29迎撃用に開発されたが高空性能が悪いので、用途を上陸用舟艇攻撃に変更し、本土決戦に備えて温存された。日本軍主力の九六式十五糎榴弾砲[中段左]。射程26kmの九六式十五糎加農砲[中段中]は有効であるが隠匿するのが難しい。同じく主力に使われたであろう90式野砲[中段右]。このような火砲より硫黄島の戦いで有用だったのはロケット砲だった。四式二十糎噴進砲[下段左]。四式四十糎噴進砲[下段中]。もっと活躍するのは八九式重擲弾筒[下段右]のような小型迫撃砲かも知れない。

 
図4、対戦車兵器である。口径47mm程度の弾ではM4中戦車シャーマンには効かないと言われていた一式機動四十七粍砲[左端]であるが、それでも沖縄戦では多数のM4中戦車を撃破している。五式四十五粍簡易無反動砲[左から2個目]。試製八十一粍無反動砲[右から2個目]なら有効であろう。九六式対戦車地雷[右端]を抱いての特攻も考えられていた。
 

図5、海の特攻兵器である。甲標的丁型蛟龍[上段左]は小型潜水艦であり特攻兵器ではない。沖縄戦でも少数使われたが、南九州の戦いでは近距離であり多数の蛟龍の攻撃には、米軍は手を焼いた筈である。モータボートの特攻兵器、航空機と震洋[上段右]の多数の同時攻撃はどのような結果となるのだろうか。海龍[下段左]は小型潜水艦であるが、爆装して特攻兵器として使用することになっている。回天[下段右]は純然たる特攻兵器である。
 

図6、志布志湾方面の防御陣地
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日本側の備えに対して米軍は、当初日本軍は九州には3個師団程度しか配備してないと思っていたのだが、無線傍受で九州に11個師団程いると知り驚愕する。初めは『オリンピック作戦』に前向きだった太平洋艦隊司令長官ニミッツ元帥は反対に周り、マッカーサやマーシャル将軍は依然推進派であったが、トルーマン大統領が損害の大きさを知る事になり『オリンピック作戦』は中止となった。
 
恐らく『オリンピック作戦』が実行に移されていれば、米軍は重症を負うかも知れないが、北海道本州はソ連軍の蹂躙するところとなり、満州で起きた数千倍以上の惨劇が日本の各所で見られたであろう。勿論日本は消滅する。と言っても『オリンピック作戦』が実行に移されなくても戦争長引けば同じ、やはり日本は消滅する。
 
終戦
そこに飛び込んだのが『ポツダム宣言受諾』の一報である。一番喜んだのはメンツを潰されなくて済んだアメリカだろう。トルーマン大統領が「日本をソ連の助力なしに英米のみで屈服させることが可能になったことから作戦中止を決定する」等と言っているようであるが、嘘である。「ほっとした」のが正しい。
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< つづき > 
 終戦
 人種差別者との戦い
 共産主義はタムルード原理主義宗教
 戦争は終わっていない

参考文献:伊藤正徳著『帝国陸軍の最後』他
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