日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください
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国民の能力を基本的な部分、その国民性、延いては、構成する民族性、更には辿って来た歴史まで考慮に入れて考えれば、そのファクター其々に拠って大きく変容し、大論が必要になりそうですが、逆に端的に、「その社会で、何が称揚されるのか?」詰まり、価値感で諮って看ればドゥでしょうか。
その前に、ご指摘の「科学を進歩させるのは、基本的にマニアックな情熱を持つ個人である」と云う事には、全面同意します。
代表的な例示としてなら、アインシュタインやボーアといった原子物理学者が一番ではなかろうか、彼等の頭の中だけの産物に端を発したものが、最終的に核爆弾や原発と云う形を成し、それらが世界を変えつつ有るワケです。
予想される彼等の深い「沈潜力」の動機とは一体何でしょう、「誰かの為に役に立ちたい」とか、「金儲けがしたい」とかでは無い事は確かですよね。
唯々、「突き詰めたい」という、根源的な欲求ではないでしょうか。
国民性とは、その欲求を持った者が突き止めて提示するモノを如何に評価するか、その価値観で決まって来るのだと思います。
米国社会の評価方法は、極めて現実的ですが、例えば、米国社会の頂点を極めたロックフェラーの成功原因とは、石油の分離法だったし、その迅速な運搬法だった。 フォードの成功も、T型フォードと云う大衆車の開発に有ったからです、どちらも画期的ですが、直ぐに役に立つモノ、社会の要請を読み取ったモノでした。
詰まり、過去の実績にはとらわれづ、近未来の価値感で評価している、と云う事です。 其処に発展する社会のダイナミズムが有ったから、と云う点も見逃せませんが。
アインシュタインやボーアの例を牽くまでもなく、欧州社会には、天才がうようよ居ソウです。 彼等の凄い処は、「思いツキを徹底的に大事にする」と云う点で、是は、社会が、歴史的にソウ云う成功体験を踏まえ、「思いつき=アイデアを大事にすべき」と云う認識を持って居るからでしょうし、其処には、「智恵を遊び乍、育てる」余裕すら感じます。
本来であれば、大文明国を標榜するシナには、欧州以上の「智恵を遊び、育てる」習慣が無くてはならない筈ですが、それは無く、有るのは、「他人の成果を盗む術」と「利己的に自分を正当化する弁論術」ダケですから、背景にある社会の価値感が如何に貧しいか、其処で正義や公正さが尊ばれて居ないかが判ります。
彼らには、道程・行程を楽しむどころか、結果ダケしか見えて居ないのですから、この先もシナから、何か善きものが生み出される事は無いでしょう。
韓国や朝鮮に至っては、その主体性の欠如が彼等の社会の特徴だと思います。 絶えず、寄生主が必要なパラサイト国家が独立性を保てないのは当然だと思います。 随い、この先、彼らに何かを期待するのは、水面に映った月に何かを願うに等しく、むなしく儚い事です。(笑)
さて、ロシア。
基本的にロシア人に、欧州人の様な、特にドイツ人の様な独創性や合理性を生み出す科学的な「何か」を創出する「沈潜力」は期待できません。
それは、社会が科学的なモノを求めて居ないから、と云う事が言えると思います。 ロシア社会が持つ価値感からは、科学的で、便利なもの、画期的なモノを、少々の高値を無視して買い込む様な「見栄はり」は、笑って済まされないのでしょう。 実績のない新しいモノが売れないのは、極端に保守的だと云う事であり、成功例が少ないからでしょう。
然し、芸術的な才能には、恵まれている様に思います。 音楽、バレエ、表現系スポーツ、そして文学には、世界に誇り得る人々が勢ぞろいして居ます。 決して凡愚な国民ではありませんが、産業や科学が、生活に及ぼす「成功」経験が全く足りない上、農奴と云う名前は悪いけれど、永年、貧しくとも静かで穏やかに暮らしてきたという実績が保守性を強化しているモノと思います。
日本では、寧ろ、「アイデア」は未だ、遊びと同じレベルに措かれて終い、折角、思いついても、そのままにしておく。 定型化した「モノを生み出すシステム」を尊重する余り、見えない「形のない」段階のアイデアを軽んじている場合が多い様に思います。 「唯の思いつき」こそ大事なのに、です。 是も社会性だと言えましょう。 ソウ云う成功例が増えてくれば、劇的に変わって行く可能性は在りますがね。
> 唯々、「突き詰めたい」という、根源的な欲求ではないでしょうか。
それが、根源的な欲求が無い人もいます。そのような追求を軽視する風土や社会に生まれたためかも知れませんし、別の欲に囚われているのかも知れません。
また『突き詰めたいという、根源的な欲求』も欲望の一つですが、そのような欲望が生まれない人は、それによる成功体験が無かった可能性があります。
その成功体験とは脳内快楽物質「エンドルフィン」の分泌です。この「エンドルフィン」、マラソンをするとか座禅をするとか、また激しい苦痛に見舞われるとでも、分泌されると言われていますが、思考や作業でも、一つのことを追求すると分泌されるのではないかと思っています。
子供が、母親の「ごはんよ!」の声に気が付かないほど遊びや物作りに熱中するのも、それと同じではないかと思います。従って、『突き詰めたいという、根源的な欲求』の成功体験が無い人とは、子供が熱中する事を許さない環境に育った人ではないかと思っています。
まあ、親が作ったカリキュラム通りの塾とかスポーツ教室だけでは成功体験は生まれないでしょうし、飢えや貧困では別の欲が勝ります。そのまま大きくなれば性欲に邪魔をされます。
従って、一つの事を追求する日本人が多いのは、社会的要因が大きいと思います。日本人を評するとき、遵法精神が旺盛なことがあげられますが、遵法精神は社会安定には寄与しますが、それだけでは社会が大きく発展しません。
北斎や若冲が、日本の発展に寄与したとは言いませんが、彼等の「突き詰めたい」欲求が日本の文化に寄与していることには、誰も異存は無いでしょう。
昔の日本人の「突き詰めたい」欲求は、もっぱら芸術が技術の世界に限られていましたが、現在では科学の世界でも成果を上げる人が出てきたようです。若い頃から藻の研究一筋で、ついに石油を作る藻=オーランチオキトリウムを発見した渡邉信筑波大教授などは、その代表でしょう。
日本は、これからだと思いますが、現政権の戦略会議に参加している経済界の顔ぶれや、教育改革と称する英語教育や国際人を育てる教育など、真逆の方向に走りだすように見えます。
『突き詰めたいという、根源的な欲求』に対して、競争心は毒物です。アメリカや欧州に蔓延っているのは、競争を煽って成果を得ようとする考え方です。確かにムチを打って競争させれば、それなりの成果を得られます。ムチを打たなければ、人は怠惰になると思っているのでしょう。しかしムチを打たなければならない人は、自発的に走りません。
結局は、文化と教育です。それも自発的に走り出す人がいることを見越した教育です。
現在のロシアを見ると、精神的余裕が無いように見えます。エネルギー・食料が自給でき、軍事大国なのですから、もっと遊び心を出せば良いのですが、国民はムチが無ければ働かない体質になっているのかも知れません。
論点がずれて、スミマセン。
>子供が、母親の「ごはんよ!」の声に気が付かないほど遊びや物作りに熱中するのも、それと同じではないかと思います。
ファミコンなどのテレビゲームでは、特にそういう現象が多発したことと思われます。しかしながら、それが故に将来のソフトウェア技術の向上に寄与することでもあります。
このような凝り性(特に男性団塊ジュニア)に対して、マスゴミは1990年代初頭『オタク』と揶揄して社会的地位を貶めました。
この時期からすでに、日本に対する破壊工作が行われたいたと推測されます。
敵にとっては、インターネットをはじめソフトウェアをリードしうる存在に成りかねない訳ですから、先手を打ったのだと思います。
また、全部とは言いませんが、マスゴミのステレオタイプに乗せられた親御さんが、わが子をよく観察せず安易にかつ強引に押さえつけてしまったのだと思います。両立という道を塞いだ形で。世間体のために。
その親御さんの世代が、ちょうどテレビによって生きてきた側面があるのとカウンター媒体が無いため、その盲信も仕方がないことですが、1億総白雉化になった結果なのでしょう。
兎に角、そこまでの思想洗脳をどう解いていくのか、もしくは抑え込むか、という妙案を提示できない心苦しさがありますが、地道にやっていくしかないと思います。
ただ一つ言えば、マスゴミが使い出した「オタク」等のスラングをマスゴミ相手に糾弾するつもりで、それを使うのは「オタク」とカテゴライズされた人の名誉は傷ついたままであまり賢くなく、「アサヒる」「K.Y」等のマスゴミにのみ当てはまるスラングで以て攻撃するようにするべきと思います。
いろいろな保守系ブログを見ていると、その点の気遣いが殆どできていないように思われます。相手はプロ中のプロであり、且つ政治談議でなく洗脳工作を仕掛けている訳ですから、単に事実もしくは正論を提示するだけでは不十分であると思います。
>このような凝り性(特に男性団塊ジュニア)に対して、マスゴミは1990年代初頭『オタク』と揶揄して社会的地位を貶めました。
日本の文化である、茶の湯、盆栽、能なんかも、凝り性を否定していたら生まれなかったと思います。いや、漫画・アニメなども。日本はそれだけ自由が有ったのでしょう。
『オタク』を否定している人間に共通なのは、その自由を否定する傾向にあることです。人間の自由を束縛してまで人権人権と煩く言っているのも、そんな人間です。所謂サヨクです。
洗脳工作を仕掛けているといるより、サヨクは洗脳された宗教信者でしょう。狂信的信者が他人に信仰を勧めるようなものです。いい例が、ジェンダーフリー信者でしょうか。男女共同参画を推進している輩です。でも国際的な動きなので、後ろに操っている集団がいると思いますけど。
彼等は、男女間で性差があることも気に食わないようです。凝り性なんかは、男性の特徴です。模型作りや、恐竜フィギュアー収集に熱中するのは、大体が男児です。それを取り上げられたら、明日の手塚治や渡邉信教授は出てこないでしょう。
自由を奪うのはサヨクの専売特許です。彼等がデフレの意味が分かっていないのも、同じ理由だと思います。なんでも損得に結びつけ、国家を束縛し、人の自由を奪うことが、人の精神を萎縮させ、結果経済を落ち込ませることが分かっていないのです。
ちょうど、デフレの記事でも書こうかなと思っていたので、デフレの話になりましたが、李氏朝鮮は、究極のデフレ国家ではないでしょうか。北朝鮮もですが。李氏朝鮮では、仏教等の宗教を否定し朱子学一本。これに対して、日本は仏教や神道もあり、遊びも儀礼も無駄が一杯ある社会です。その結果は、・・・。洗脳サヨクが支配する社会の行く着く先は、李氏朝鮮です。
トランスフォーマを作ってしまった青少年が海外で話題になっています。
http://www.youtube.com/watch?v=Thh3FGJYdAM
今や支那人でも「こんなの無駄だ!」とは言いません。保守の戦いって、束縛との戦い・自由への戦いだと思います。
>>親が作ったカリキュラム通りの塾とかスポーツ教室だけでは成功体験は生まれないでしょうし、飢えや貧困では別の欲が勝ります。そのまま大きくなれば性欲に邪魔をされます。
卓見だと思います。 その環境に曝された対象者(子供)は、互いに競争する事でしか、カタルシスを得る事が出来なくなります。 つまり勝ち負け重視、であり、子供にとっても、結果を評価される事ダケが重要になって行く。 唯一のカタルシスを得る為には、手段を選ばないと云うチョイスも、同じ価値観を持った周囲なら、躊躇いすら存在しないでしょう。
「結果重視」の選択は、時に已むを得ない場合が存在しますが、其の過程にモラルを求める成分が滅失しては、成果そのものの価値が無くなって終う事にも、留意して措かねばなりません。
「成果の価値」とは、その過程に参加した人々すべての支持を得てこそ、そのリスペクトが高められるモノですから、過程に措ける個の努力や情熱こそリスペクトされるべき主体でしょう。
ドゥも、朝鮮族にはこの辺りが理解できていないのは、キット、その背景には、「成果を権威=権力の唯一の証」とする社会が有るからでしょう。
例えば、 朝鮮族が滑稽なほど、ノーベル賞に拘るのは「世界に認められた=世界を制覇した」と考える「短絡」が存在しているからでしょう。
学問は、基本的な基準の依り代となるものですが、その基準確立への業績を評価しているノーベル賞を唯の「成果」としてしかとらえられない歪んだ価値感しか持ち合わせて居ない彼らには、更に高次の権威と権力の区別は、つかないと思います。
国民性は、その国を構成する社会が持つ価値感によって、大きく左右されますが、例えばオリンピックは、戦後暫くは、米国もロシアも、獲得メダル数で成果を争った時代がありましたが、前述の「過程」に対するリスペクトが軽視された結果、「唯の数に過ぎない」と云う、空疎な風潮が生まれた反省から、競争熱は幾らか醒めて、銀や銅の価値、入賞の価値も見直されてきている様に思います。
「過程を楽しむ」。
如何なる分野の競争であろうと、其処へ至るには、飽くなき向上心と努力を継続する情熱を育てる社会が無くてはイケませんが、勝敗だけに拘った価値感では決して到達できない境地だと思います。
> 「過程を楽しむ」。
支那から渡ってきた闘茶が、人を持て成す茶の湯に変わったのは、日本が支那・朝鮮より熟成した社会だったからでしょう。戦国武将が競争で人を持て成しているのは、何とも不思議な世界です。
安逸に溺れず、怠惰ではなく、物事を追求し、そして競争心も抑えるとなると、難しそうですが、物事を一心不乱に追求すれば、人と競争する気も無くなるのでしょう。昔の日本人が教えてくれています。
国民の能力を基本的な部分、その国民性、延いては、構成する民族性、更には辿って来た歴史まで考慮に入れて考えれば、そのファクター其々に拠って大きく変容し、大論が必要になりそうですが、逆に端的に、「その社会で、何が称揚されるのか?」詰まり、価値感で諮って看ればドゥでしょうか。
その前に、ご指摘の「科学を進歩させるのは、基本的にマニアックな情熱を持つ個人である」と云う事には、全面同意します。
代表的な例示としてなら、アインシュタインやボーアといった原子物理学者が一番ではなかろうか、彼等の頭の中だけの産物に端を発したものが、最終的に核爆弾や原発と云う形を成し、それらが世界を変えつつ有るワケです。
予想される彼等の深い「沈潜力」の動機とは一体何でしょう、「誰かの為に役に立ちたい」とか、「金儲けがしたい」とかでは無い事は確かですよね。
唯々、「突き詰めたい」という、根源的な欲求ではないでしょうか。
国民性とは、その欲求を持った者が突き止めて提示するモノを如何に評価するか、その価値観で決まって来るのだと思います。
米国社会の評価方法は、極めて現実的ですが、例えば、米国社会の頂点を極めたロックフェラーの成功原因とは、石油の分離法だったし、その迅速な運搬法だった。 フォードの成功も、T型フォードと云う大衆車の開発に有ったからです、どちらも画期的ですが、直ぐに役に立つモノ、社会の要請を読み取ったモノでした。
詰まり、過去の実績にはとらわれづ、近未来の価値感で評価している、と云う事です。 其処に発展する社会のダイナミズムが有ったから、と云う点も見逃せませんが。
アインシュタインやボーアの例を牽くまでもなく、欧州社会には、天才がうようよ居ソウです。 彼等の凄い処は、「思いツキを徹底的に大事にする」と云う点で、是は、社会が、歴史的にソウ云う成功体験を踏まえ、「思いつき=アイデアを大事にすべき」と云う認識を持って居るからでしょうし、其処には、「智恵を遊び乍、育てる」余裕すら感じます。
本来であれば、大文明国を標榜するシナには、欧州以上の「智恵を遊び、育てる」習慣が無くてはならない筈ですが、それは無く、有るのは、「他人の成果を盗む術」と「利己的に自分を正当化する弁論術」ダケですから、背景にある社会の価値感が如何に貧しいか、其処で正義や公正さが尊ばれて居ないかが判ります。
彼らには、道程・行程を楽しむどころか、結果ダケしか見えて居ないのですから、この先もシナから、何か善きものが生み出される事は無いでしょう。
韓国や朝鮮に至っては、その主体性の欠如が彼等の社会の特徴だと思います。 絶えず、寄生主が必要なパラサイト国家が独立性を保てないのは当然だと思います。 随い、この先、彼らに何かを期待するのは、水面に映った月に何かを願うに等しく、むなしく儚い事です。(笑)
さて、ロシア。
基本的にロシア人に、欧州人の様な、特にドイツ人の様な独創性や合理性を生み出す科学的な「何か」を創出する「沈潜力」は期待できません。
それは、社会が科学的なモノを求めて居ないから、と云う事が言えると思います。 ロシア社会が持つ価値感からは、科学的で、便利なもの、画期的なモノを、少々の高値を無視して買い込む様な「見栄はり」は、笑って済まされないのでしょう。 実績のない新しいモノが売れないのは、極端に保守的だと云う事であり、成功例が少ないからでしょう。
然し、芸術的な才能には、恵まれている様に思います。 音楽、バレエ、表現系スポーツ、そして文学には、世界に誇り得る人々が勢ぞろいして居ます。 決して凡愚な国民ではありませんが、産業や科学が、生活に及ぼす「成功」経験が全く足りない上、農奴と云う名前は悪いけれど、永年、貧しくとも静かで穏やかに暮らしてきたという実績が保守性を強化しているモノと思います。
日本では、寧ろ、「アイデア」は未だ、遊びと同じレベルに措かれて終い、折角、思いついても、そのままにしておく。 定型化した「モノを生み出すシステム」を尊重する余り、見えない「形のない」段階のアイデアを軽んじている場合が多い様に思います。 「唯の思いつき」こそ大事なのに、です。 是も社会性だと言えましょう。 ソウ云う成功例が増えてくれば、劇的に変わって行く可能性は在りますがね。
> 唯々、「突き詰めたい」という、根源的な欲求ではないでしょうか。
それが、根源的な欲求が無い人もいます。そのような追求を軽視する風土や社会に生まれたためかも知れませんし、別の欲に囚われているのかも知れません。
また『突き詰めたいという、根源的な欲求』も欲望の一つですが、そのような欲望が生まれない人は、それによる成功体験が無かった可能性があります。
その成功体験とは脳内快楽物質「エンドルフィン」の分泌です。この「エンドルフィン」、マラソンをするとか座禅をするとか、また激しい苦痛に見舞われるとでも、分泌されると言われていますが、思考や作業でも、一つのことを追求すると分泌されるのではないかと思っています。
子供が、母親の「ごはんよ!」の声に気が付かないほど遊びや物作りに熱中するのも、それと同じではないかと思います。従って、『突き詰めたいという、根源的な欲求』の成功体験が無い人とは、子供が熱中する事を許さない環境に育った人ではないかと思っています。
まあ、親が作ったカリキュラム通りの塾とかスポーツ教室だけでは成功体験は生まれないでしょうし、飢えや貧困では別の欲が勝ります。そのまま大きくなれば性欲に邪魔をされます。
従って、一つの事を追求する日本人が多いのは、社会的要因が大きいと思います。日本人を評するとき、遵法精神が旺盛なことがあげられますが、遵法精神は社会安定には寄与しますが、それだけでは社会が大きく発展しません。
北斎や若冲が、日本の発展に寄与したとは言いませんが、彼等の「突き詰めたい」欲求が日本の文化に寄与していることには、誰も異存は無いでしょう。
昔の日本人の「突き詰めたい」欲求は、もっぱら芸術が技術の世界に限られていましたが、現在では科学の世界でも成果を上げる人が出てきたようです。若い頃から藻の研究一筋で、ついに石油を作る藻=オーランチオキトリウムを発見した渡邉信筑波大教授などは、その代表でしょう。
日本は、これからだと思いますが、現政権の戦略会議に参加している経済界の顔ぶれや、教育改革と称する英語教育や国際人を育てる教育など、真逆の方向に走りだすように見えます。
『突き詰めたいという、根源的な欲求』に対して、競争心は毒物です。アメリカや欧州に蔓延っているのは、競争を煽って成果を得ようとする考え方です。確かにムチを打って競争させれば、それなりの成果を得られます。ムチを打たなければ、人は怠惰になると思っているのでしょう。しかしムチを打たなければならない人は、自発的に走りません。
結局は、文化と教育です。それも自発的に走り出す人がいることを見越した教育です。
現在のロシアを見ると、精神的余裕が無いように見えます。エネルギー・食料が自給でき、軍事大国なのですから、もっと遊び心を出せば良いのですが、国民はムチが無ければ働かない体質になっているのかも知れません。
論点がずれて、スミマセン。
>子供が、母親の「ごはんよ!」の声に気が付かないほど遊びや物作りに熱中するのも、それと同じではないかと思います。
ファミコンなどのテレビゲームでは、特にそういう現象が多発したことと思われます。しかしながら、それが故に将来のソフトウェア技術の向上に寄与することでもあります。
このような凝り性(特に男性団塊ジュニア)に対して、マスゴミは1990年代初頭『オタク』と揶揄して社会的地位を貶めました。
この時期からすでに、日本に対する破壊工作が行われたいたと推測されます。
敵にとっては、インターネットをはじめソフトウェアをリードしうる存在に成りかねない訳ですから、先手を打ったのだと思います。
また、全部とは言いませんが、マスゴミのステレオタイプに乗せられた親御さんが、わが子をよく観察せず安易にかつ強引に押さえつけてしまったのだと思います。両立という道を塞いだ形で。世間体のために。
その親御さんの世代が、ちょうどテレビによって生きてきた側面があるのとカウンター媒体が無いため、その盲信も仕方がないことですが、1億総白雉化になった結果なのでしょう。
兎に角、そこまでの思想洗脳をどう解いていくのか、もしくは抑え込むか、という妙案を提示できない心苦しさがありますが、地道にやっていくしかないと思います。
ただ一つ言えば、マスゴミが使い出した「オタク」等のスラングをマスゴミ相手に糾弾するつもりで、それを使うのは「オタク」とカテゴライズされた人の名誉は傷ついたままであまり賢くなく、「アサヒる」「K.Y」等のマスゴミにのみ当てはまるスラングで以て攻撃するようにするべきと思います。
いろいろな保守系ブログを見ていると、その点の気遣いが殆どできていないように思われます。相手はプロ中のプロであり、且つ政治談議でなく洗脳工作を仕掛けている訳ですから、単に事実もしくは正論を提示するだけでは不十分であると思います。
>このような凝り性(特に男性団塊ジュニア)に対して、マスゴミは1990年代初頭『オタク』と揶揄して社会的地位を貶めました。
日本の文化である、茶の湯、盆栽、能なんかも、凝り性を否定していたら生まれなかったと思います。いや、漫画・アニメなども。日本はそれだけ自由が有ったのでしょう。
『オタク』を否定している人間に共通なのは、その自由を否定する傾向にあることです。人間の自由を束縛してまで人権人権と煩く言っているのも、そんな人間です。所謂サヨクです。
洗脳工作を仕掛けているといるより、サヨクは洗脳された宗教信者でしょう。狂信的信者が他人に信仰を勧めるようなものです。いい例が、ジェンダーフリー信者でしょうか。男女共同参画を推進している輩です。でも国際的な動きなので、後ろに操っている集団がいると思いますけど。
彼等は、男女間で性差があることも気に食わないようです。凝り性なんかは、男性の特徴です。模型作りや、恐竜フィギュアー収集に熱中するのは、大体が男児です。それを取り上げられたら、明日の手塚治や渡邉信教授は出てこないでしょう。
自由を奪うのはサヨクの専売特許です。彼等がデフレの意味が分かっていないのも、同じ理由だと思います。なんでも損得に結びつけ、国家を束縛し、人の自由を奪うことが、人の精神を萎縮させ、結果経済を落ち込ませることが分かっていないのです。
ちょうど、デフレの記事でも書こうかなと思っていたので、デフレの話になりましたが、李氏朝鮮は、究極のデフレ国家ではないでしょうか。北朝鮮もですが。李氏朝鮮では、仏教等の宗教を否定し朱子学一本。これに対して、日本は仏教や神道もあり、遊びも儀礼も無駄が一杯ある社会です。その結果は、・・・。洗脳サヨクが支配する社会の行く着く先は、李氏朝鮮です。
トランスフォーマを作ってしまった青少年が海外で話題になっています。
http://www.youtube.com/watch?v=Thh3FGJYdAM
今や支那人でも「こんなの無駄だ!」とは言いません。保守の戦いって、束縛との戦い・自由への戦いだと思います。
>>親が作ったカリキュラム通りの塾とかスポーツ教室だけでは成功体験は生まれないでしょうし、飢えや貧困では別の欲が勝ります。そのまま大きくなれば性欲に邪魔をされます。
卓見だと思います。 その環境に曝された対象者(子供)は、互いに競争する事でしか、カタルシスを得る事が出来なくなります。 つまり勝ち負け重視、であり、子供にとっても、結果を評価される事ダケが重要になって行く。 唯一のカタルシスを得る為には、手段を選ばないと云うチョイスも、同じ価値観を持った周囲なら、躊躇いすら存在しないでしょう。
「結果重視」の選択は、時に已むを得ない場合が存在しますが、其の過程にモラルを求める成分が滅失しては、成果そのものの価値が無くなって終う事にも、留意して措かねばなりません。
「成果の価値」とは、その過程に参加した人々すべての支持を得てこそ、そのリスペクトが高められるモノですから、過程に措ける個の努力や情熱こそリスペクトされるべき主体でしょう。
ドゥも、朝鮮族にはこの辺りが理解できていないのは、キット、その背景には、「成果を権威=権力の唯一の証」とする社会が有るからでしょう。
例えば、 朝鮮族が滑稽なほど、ノーベル賞に拘るのは「世界に認められた=世界を制覇した」と考える「短絡」が存在しているからでしょう。
学問は、基本的な基準の依り代となるものですが、その基準確立への業績を評価しているノーベル賞を唯の「成果」としてしかとらえられない歪んだ価値感しか持ち合わせて居ない彼らには、更に高次の権威と権力の区別は、つかないと思います。
国民性は、その国を構成する社会が持つ価値感によって、大きく左右されますが、例えばオリンピックは、戦後暫くは、米国もロシアも、獲得メダル数で成果を争った時代がありましたが、前述の「過程」に対するリスペクトが軽視された結果、「唯の数に過ぎない」と云う、空疎な風潮が生まれた反省から、競争熱は幾らか醒めて、銀や銅の価値、入賞の価値も見直されてきている様に思います。
「過程を楽しむ」。
如何なる分野の競争であろうと、其処へ至るには、飽くなき向上心と努力を継続する情熱を育てる社会が無くてはイケませんが、勝敗だけに拘った価値感では決して到達できない境地だと思います。
> 「過程を楽しむ」。
支那から渡ってきた闘茶が、人を持て成す茶の湯に変わったのは、日本が支那・朝鮮より熟成した社会だったからでしょう。戦国武将が競争で人を持て成しているのは、何とも不思議な世界です。
安逸に溺れず、怠惰ではなく、物事を追求し、そして競争心も抑えるとなると、難しそうですが、物事を一心不乱に追求すれば、人と競争する気も無くなるのでしょう。昔の日本人が教えてくれています。
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