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崗上虜囚の備忘録

日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください

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無題

アメリカの本音は、竹島は韓国がとった方がよい。そして資源は俺が貰う。
尖閣は絶対にシナにはやらない。そんな事したら、資源が俺の物でなくなってしまうではないか。(まあ資源だけでなく軍事上のこともありますが。)

ヒラリーが日本に味方してくれたと喜んでいる保守派がいますが、なんとおろかな。
ヒラリーはアメリカの国益を言っているに過ぎない。
マッカーサーだって日本のために言ったのではない。国益のためでしょう。

Re. 八目山人様

お久しぶりです。

>アメリカの本音は、竹島は韓国がとった方がよい。そして資源は俺が貰う。

韓国はアメリカと共同で日本海側のメタンハイレードを開発するようなので、現在の本音は、そうなのかも知れません。昔の曖昧な態度は、日韓離反のためと思います。

>マッカーサーだって日本のために言ったのではない。国益のためでしょう。

マッカーサーの発言は、退役させられたあてこすりでしょう。

ジョセフ・ナイが『従軍慰安婦問の歴史修正は許さない』のようなこと言っていますが、共産主義者と同じ口ぶりです。アメリカにとって日本人の洗脳が覚めたら困るわけです。

日本人洗脳工作は、アメリカの国益の為などと言う上品なものより、ドイツ騎士団による被征服民にたいするキリスト教化策と同様、被征服民を奴隷にすること、即ち欲の為です。

米国へ深まる失望

 私は、米国は、様々な利権集団の複合体だと思って居ますので、いろんな顔に瞬時に変わるし、同時に2つ以上の顔を示す事だってある変幻自在の妖怪変化の様な国だと思って見る事にして居ます。

 マッカーサーの真の顔は、フィリピンの独裁者ですから、開戦から暫くして九死に一生の目に遭わされた事の恨みは深いものが在ったと思います。 フィリピン奪回を誓った「I shall return]の言葉は余りにも有名ですよね。

 唯、マッカーサーは個人ですから、一度変化すれば元に戻る事は余りないでしょう。 彼のバーン神父等からの説得、正論は聞き入れた様ですし。

 米国は、50万人以上の非戦闘員を焼夷弾と原爆でホロコーストに架けた残忍さと、バーン神父の様な正論と正気に応答出来る常識も併せ持って居ます。

 唯、残念なのは、此の度NY州上院は、日本軍が行ったとされる戦時慰安婦の強制連行の韓国側の主張を全面的に受け容れ、日本軍の「人道に対する罪」を非難糾合する決議を可決したらしい。

 正義の味方のつもりなのでしょうが、自分達の祖先が日本に行った残忍な行為を棚に上げて、「人道に対する罪」も無いもんだ。

 然も、売春婦は公募していたが、求人に対して応募が圧倒的に多かった事の証拠は幾らでもある。 亦、その売春制度を一番利用したのは、他でもない米軍兵士であった事実は知って知らないふりをしているのか。

 それなら「蒙昧無知」「恥の上塗り」そのままの、決議だと言えましょうが、是は亦、米国人が如何に単純な正邪の判断しかできない鴨示している事になりますね。

 詰まり、「幼稚で分別が着かない国民なのだ」と、証明している様なものです。

Re. 米国へ深まる失望、ナポレオン・ソロ様

> 唯、マッカーサーは個人ですから、一度変化すれば元に戻る事は余りないでしょう。 彼のバーン神父等からの説得、正論は聞き入れた様ですし。

マッカサーの変化は、ワシントンからの冷遇と実際の日本人に接したのと、両方があるかも知れません。

> 唯、残念なのは、此の度NY州上院は、日本軍が行ったとされる戦時慰安婦の強制連行の韓国側の主張を全面的に受け容れ、日本軍の「人道に対する罪」を非難糾合する決議を可決したらしい。

問題なのは、支那人、朝鮮人の大量流入でしょう。朝鮮人の圧力により不法移民も正規の移民と同じ扱いになるように法改正がなされるようです。

このまま行けば、アメリカは支那人、朝鮮人に乗っ取られると思います。彼らの尻馬に乗って、日本叩きを行っていますが、いずれ自分達に災いが及ぶとは知らないでしょう。

アメリカ政府が慰安婦問題で韓国側に立つなら、日本は覚悟を決めて断固アメリカとは手を切るべきと思います。

キリスト教という悪夢

新約聖書を読んでみますと、キリストさんは当時の寄進信者、律法信者が大嫌いだったからそれに反抗したのだと読めてしまいます。

「金払えば救われるのか、ガチガチの法律だけ守っておれば救われるのか。違うだろ」とユダヤ教に反発して結果的に秩序を乱したと目され磔になった。

それを思い出したかのように妥協できない怒りを爆発させたのがルターだったような・・・

免罪符なんて日本の神社のおみくじくらいに考えられなかったのかな。「お互い人間だから生活もあるしね・・・」くらいの思いやりも持てなければそりゃ年中ケンカだろ。

プロテスタント系のカルトの多い米国は上記のような想像をすると実に痛ましい人たちのような気がします。よけいなお世話かな(笑)

『嘘だらけの日米近現代史』(倉山満著)によると、南北戦争の勝者北部は東京裁判そっくりの裁判をして戦闘に負けた南部を徹底的に痛めつけたそうですね。

自分に自信がないのでしょう。だから、相手の手足をしばって抵抗できない状態にしたうえで「な、お前が間違ってたんだ。そうだろ?認めろ」と迫るような「卑怯ないじめっ子」でしかない。だから、その後朝鮮戦争で日本の置かれていた立場に遅ればせに気づく。もっと早よ気付けよ、と今言ってもしかたないですが。

マッカーサーという人は、天皇陛下という高潔な君主の人格に打たれ徐々に感化されて日本びいきになったと「マッカーサー回顧録」を読む限り私は感じました。むろん、昭和天皇だけでなく、終戦前の戦闘力の手ごわさや駐留中に見た日本人の高潔さにも感化されたのだろうと想像しています。

先の話に戻りますと「神仏習合」をやった私たちの祖先は、一神教の「純粋さ」の観点から見るとひどくいい加減に映るかもしれませんが、争いを避ける知恵者だったのではないかと思います。(これ、いつも私のクラスの生徒に笑いながら一年に一度は話すことにしています。)

おおらかさのほうが人間の側の理論的整合性を軽くしのぐと私には思えるもので。

その点、我が藩が明治期にどこよりも激しく廃仏毀釈をしてしまったことに「なんということだ。おかげで現代では文化財過疎地になってしまったじゃないか・・・」と嘆かわしくも思うものです。

米国は建国時のインディアン虐殺のトラウマから逃れられておらず、国民のDNAになっていないか。「内心後ろめたいのだ」と私は見ています。金や力の保持者となることが God bless me.の証明とでも?それはキリスト教風にはどうなんだ?

アメリカ人にいじめられたら上記のように匕首を突きつけようと決意したのがはや40年前(笑)

ニュースに流れるアメリカはアメリカ社会の勝利者である一部かもしれません。私は学生時代にアメリカ人留学高校生たちを多数見て話す機会があり、「ヤンキーなんて一部なんだな。日本の田舎の子と同じように純朴で欲が少ないな」とカルチャーショックを受けた経験があるので、そのイメージが強く偏っているのかもしれませんが。

カーペンターズのような田舎田舎したシンガーがもてはやされた頃が好ましいアメリカです。文学だとO.Hneryかな。

Youtubeでおなじみの「テキサスオヤジ」に似た香りを感じます。

Re. キリスト教という悪夢、篠の目様

ヨーロッパ人も、十字軍のおぞましさや植民地での所業を言われれば、キリスト教徒でないのは野蛮人だとか道徳が無い民族だとは、絶対言えない筈です。

それでも彼らが人権人権と攻撃的なのは、罪の意識から逃れたいためでしょう。そんな彼らの講釈に恐れ入ってしまうのは日本人だけです。せっかく他の文化を感化出来る物を持っているのに、自信が無いから自分達で壊してしまっているのは勿体無いことです。

でも此処に来て、かなりの外国人が日本の文化を見直すようになって来ています。Youtubeなんか見ても、日本は宗教的に煩くないの良いと言いながら、日本人が宗教的行事を嬉々としてするのを見て参加したいようです。一番多いのは町がきれいだと言う評価ですが、科学技術から食文化を含めたあらゆる日本文化を見て、又日本か、やはり日本かのコメントが多くなっています。困ったことに日本に移住したい外国人が増えていることです。

それに対してマイナスの評価は、南京大虐殺や従軍慰安婦を言う人間か、白人優位から抜け出ていない人間のものだけのようです。

そんな人間の言うことは気にしないで(時々返り討ちにするとか)、評価してくれる人達の期待にそぐわないように、日本人は我が道を行くべきでしょう。自信過剰と自信喪失は同じものです。どちらも不勉強から来ています。ちょっと勉強すれば、よそ見をする必要はなくなります。

後、神仏習合ですが、神道は紙に書いた道徳規範が有りませんから、それを仏教から借りたのでしょう。儒教からも借りていますし。なので仏教も儒教も牙を抜いちゃっていますね。

只、仏教が葬式仏教だけとなり、仏教が無くなりそうなのがちょっと心配です。

よろしかったら

今年のセンター試験国語第1問の文章をごらんください。

小林秀雄の「鐔(つば)」からの出題文で、仏教が中世の人々には「音楽」のようになじんだものであったろうという考察があり、芸術的な日本人の感性を養った仏教という観点でおもしろく感じました。

私個人は「生きている限りは苦はあたりまえ。それも一過性でしかない」という認識が仏教にはあるようで、better-bestへとgreedyになりがちなキリスト教よりも好ましく感じます。チベットが中共に食い散らかされいるのが悲しくはありますが。

ブータンやネパールあるいはチベットに行くと「生きる仏教精神」にじかに接することができるのではと夢想します。

レスの最後の部分にいささか感じるところありましたので、蛇足かとは恐れつつ・・・

仏教徒が採るべき途

>篠の目さん、ソロです。
 キリスト教世界と仏教世界の死生観の差って、輪廻転生の有る無しだと思いますね。 

 原典で云うサンサーラは、最初は無垢で発生し、生命を維持できる物体に入って生命となる現象を誕生と云い、生命の危機と闘いながら成長し、他者との生存競争に苦しみ、そして、病に苦しみ、死の恐怖に戦き乍、遂には死んでしまう。 つまり、生病老死の四苦がこの世の人の姿です。 そして、サンサーラは是を永久に繰り返す現象でしょう。

 すると其処に、当然「人は何の為に生まれてくるのか?」と云う疑問が発生する。 
 
 この問題への答えがバラモン・ジャイナ・仏教・・その他で、サンサーラを前提とした推奨する生き方の差異によって、インド発生の宗教の多様性が生まれていると云えましょう。

 その一々を挙げるのは止めておきますが、この問題を考えるに先立ち、魂と云う存在を既存として認識し、且つ、存在が生命を維持する肉体の有無に拠らないという前提が存在します。

 処が、西洋は砂漠の三宗教に拠らず、魂の存在について多くを語っていません。 其処に究極、ユダヤ的唯物論が成立する土壌が在るのではないでしょうか。 西洋の差異とは、ユダヤ教徒フロイトの唯物論と、時空を超えた魂の邂逅を意識する超自我の存在を認識したゲルマン人ユングの差でしかない。

 古代東西で思想交流があった筈なのに、死生観の根本から違っているのは、理解しにくい話です。

 加えて、BC13世紀にカイバル峠を超えて侵入・侵略してインドを征服したアーリア人は、ハウスホーファーに曰く、ゲルマン人の祖先とも言われているが、サンサーラは、そのアーリア人が建てたウパニシャッド哲学からのものでしょう。

 これらの差異は、オソラク、人間の生存環境の差異から生じるものだと思います。 生存環境が厳しい欧州や中東では、自己の利益のみに拘る事を悪とし、他者の生存にまで、心を配る自己犠牲を以て善とする様な、社会は現実のものではないのだろう。

 随い、緑と水と生命に溢れた東洋には、現生で為した善行が現世で報われずとも、来世で報われるとするバラモン教や、現世で苦を生き抜いて、智を磨き、以て解脱を生じせしめサンサーラを卒業できるという仏教迄が存在します。

 一方、砂漠の多い激しい気候変化と、多くの民族の交雑点である地形、多民族故の多様な価値観の中、激しい生存競争が当たり前の中東、欧州世界では、あの世とこの世の行き来等思いもよらない話なのでしょう。

 日本社会は、生活の中に仏教が溶け込んでいます、あらゆる教えも異なる価値観も受け容れるのが、仏の教えの基本でしょう。

 然し、異なる危険なものまで放置していては、自民族が、延いては、地球が滅びるのを待つダケの様に思います。 我々人類は、来るべき人類の試練に真剣に向かい合って、一体どうするのが良いのかを考え直すべき、そして、仏教を具現化した我々仏教徒は、挙って、その人類に途を示すべきでしょう。

Re. 篠の目様、ナポレオン・ソロ

>今年のセンター試験国語第1問の文章をごらんください。

センター試験の問題は検索で出て来ませんでしたが、センター試験に出た小林秀雄の「鐔(つば)」の全文は読むことは出来ました。ウーン、何と言って良いか。たぶん0点かも。

>ブータンやネパールあるいはチベットに行くと「生きる仏教精神」にじかに接することができるのではと夢想します。
> 日本社会は、生活の中に仏教が溶け込んでいます、あらゆる教えも異なる価値観も受け容れるのが、仏の教えの基本でしょう。

チベット仏教もセイロンなどに伝わっている仏教も、結構理屈ぽいですね。又、インドでも法華経を信じる狂信的な宗派もあったようです。

それが日本でトゲが抜かれたのは、初めに入ったのが文献(経典)だったからでしょう。人が来ない分、当時の日本人は丹念に意味を理解しようしたのだと思います。

最初に伝わったのは、発句経とか阿含経の様な小乗仏教的のものと思われますので、地獄・極楽のようなものは無く、単純に『諸々の悪をなさず』と言うような、あたりまえの事が書かれた経典として重宝したのではないかと思います。

あたりまえと言うのは、魏志倭人伝に書かれているように、その頃の日本人は充分道徳的でしたから、地獄とか極楽とかアメとムチで躾が必要なのは、あまり居なかったと思われるからです。

でも結局のところ、殆どの日本人は大乗仏教の地獄・極楽を信じた訳ですが、それでも狂信的に信じる程、一般庶民に大悪党は居なかったでしょうから、脅迫観念に縛られるより、むしろ大部分の日本人は大乗仏教が与えてくれた幽界を楽しんだのと思います。

つまり信じたと言うより楽しんだ、のではないでしょうか。と言っても大乗仏教には仏教哲学が有りますので、深く学べば『地獄も極楽も無い』、『否、現世も来世も無い』と気が付くことになり、そこを通り過ぎれば単純に『諸々の悪をなさず』と当たり前の世界に戻るので、日本に入った仏教は入門編も卒業編も一貫していることになります。

でも、悟った後の当たり前の世界が『諸々の悪をなさず』になるのは、日本人だけかも知れません。

仏教が日本人に道徳を教えたというより、日本人が仏教世界を楽しんだのかなと思います。悲惨な戦争を見ても善悪に囚われず、諸行無常を感じるのは日本人の本来の姿であり、仏教がそれを後押ししてくれたものと思います。

つまり日本の仏教はかなり独自と思います。

タイ人やチベット人も諸行無常を感じるのですかね。上記の内容はあまり自信が無いのですけど、善悪の観念に陥るより諸行無常を感じ、幽界を楽しめと言いたいです。

ナポレオン・ソロ様 崗上虜囚様

センター試験で「玉砕」(?)してしまった教え子を抱え、ついつい浮かんだ一節におつきあいくださり、ありがとうございます。

今日は偶然西部邁先生と小浜逸郎先生(「歎異抄」について新版を著されたようです)の対談を視聴していました。

教学に乏しい私は、それでも学生時代に読んだ『出家とその弟子』についての話題が出てくればそれなりに聞き入ってしまう程度ですが、むしろこの手の話題に接すること自体が嫌いでないようなところがあります。

戦後が誤ったものであるなら、表面化するものについてただすと同時に、時としてわが先人たちの心のありようはどうだったのか想いを致してみるのも自然な心の動きなのでしょう。

数年前エノラゲイから原子爆弾を放った元兵士が亡くなりましたよね。同胞20万人の命を奪った憎き相手ではありますが、「どんな気持ちでその後をおくったのだろうか」と不憫にも思いました。それとも単に自分は英雄だと言い聞かせるにとどまったのか。

何も思わず感じない「悪人」は「正機説」の対象とはならないのかもしれませんね。

せっかくのマッカーサーの話題をそらしてしまったのが申し訳なく精いっぱい戻そうとしたのですが、この辺りが限界のようです。お許しください。

私のよく知らないドイツ騎士団についてなどさらにご教示いただければと存じます。

日本仏教の特異性とゲルマン人

>虜囚さん、おはようございます。
>>日本の仏教はかなり独自
 私もそう思います。 発祥地のインドを初め、他民族集合の階層社会が多く、その不平等が先ず乗り越えるべき命題であったのに、日本では、既存の神道では当り前である、「神と司祭以外は、皆平等。」と云う常識を持つ社会が土壌になったからだと思います。 其れには、3万年の長きをこの天災の多い列島で、皆で力を併せて生き抜く試練が必要だったのですが。

>>善悪の観念に陥るより諸行無常を感じ、幽界を楽しめと言いたいです。
無常観と云いますか、人間世界ダケを観るのでは無く、人間を自然の一部の現象として捉えるのは、ある意味、「人に非ざる視点」だと思います。

 是も、大自然の脅威の前の人間の力の儚さ、卑小さを思い知って絶望するが、其処に顕現された圧倒的な「神の力」と、その後の何も無かった様な平穏と修復力から、「神の意志」が、森羅万象に対する大愛である事を感取出来た経験を経ての事です。 

 人間の功利、否、生存への拘りさえも、その段階では、人間の意思や生命すら、恰も大海に風に拠って起こりそして消えてゆく一瞬の波の様な現象に過ぎない。 

 其処を無意識にでも知って居るから、亦は、理解できる土壌が在るから、篠の目さんの様に、他者の生きる苦しみに思いを寄せ、
>>「どんな気持ちでその後をおくったのだろうか」と不憫にも思いました
 と言える心を持てるのだと思います。

 こう云う精神的な土壌は、社会に永い時を懸けて根付いたもので、文章に書いた理屈では身に着かないモノだと思います、理解はしても自分のモノには、中々成らない。

 少年期、生まれたての子猫達を平気で殺す友人を観て、大ゲンカした事が在りますが、「俺だって好きでやって居ない、では、この子猫を全部お前が引き取ってくれ」と言われた時、何も言葉を返せず、その後ずっと悩んだ経験が在ります。

 「子猫一匹救ってやれない我々が自然を支配しているのではない」のは、確実でした。 自分の無力さや思い上がりがトテモ哀しかった。

 悩んだ挙句、学校で担任の先生に相談しましたら、「物事には容量があって、何かの恣意でその範囲を超す事は、全体のバランスを崩し更なる悲劇を発生させる、その点に関して我々は確かに無力だが、是は如何ともし難い事だ。 然し、世にはもっと悲惨な事が日々起こっているが、是等の多くは我々が気を着けて居ればある程度防げる事だ、それに気が着けないのは、目を開けながらも目を閉じて居るのと同じだからだ、詰まり、事象を観る智を養わねば、何も見えない。」 と言われました。

 この認識は、後に、愛さえも「我執」として、ネガティブに捉える仏の教えが、その智を得る事で執着を越えられると云うものである事を理解する際に役に立ちました。

 結局の処、この世に生まれてくれば、生き物としての限定、即ち、食べねば死ぬし、呑まずとも死ぬ、些細な事で生物は死ぬと云う限定の中で、生きて、否、生かされているのです。 

 釈尊は、大きな自然の中の私は、の御意のママに生かされる地球の欠片にしか過ぎないが、生ある裡に智を得る事で、我の本体である魂は、その境遇を脱し、仏となる事が出来ると教えます。

 今生を限りと前提する、西洋の死生観では説明できないモノです。

>>ドイツ騎士団について
 スイマセン、私も知りません。 プロイセンの歴史に着いての掘り下げは是からです。

 唯、私個人、ドイツに着いては、発見がありました。 此の処、ヒトラーが云っていたアーリア人=ゲルマン人とは、全くの彼の願望に過ぎなかった事を確認しました。 そして、ゲルマン人と云う括り自体、シナ人と云う括りと同じレベルのモノであるとも。 ソモ、ゲルマン人とは、「ケルト人とは別の人種」と云う認識で、シーザーが名付けたモノだそうで、中身は南北で人種成分が違います。 ダカラ、ヒトラーは「人種改良」の様な真似をしたのですね。

 すると、アーリア人とは一体何なのか、が、是からの私の興味の的です。 Wikiには、「BC90世紀に牧畜を行っていた」と書いてありましたね。

Re. 日本仏教の特異性とゲルマン人、ナポレオン・ソロ様

> 「子猫一匹救ってやれない我々が自然を支配しているのではない」のは、確実でした。 自分の無力さや思い上がりがトテモ哀しかった。

仏教は、愛も執着として戒めの対象ですけど、そんな事を言ってもね。でも捕鯨問題を見て分かりますが、西欧人のように愛憎深いと何事も解決できないでしょう。もっとも愛と同時に憎しみも楽しんでいるのかも知れませんけど、彼らも諸行無常の心を知るべきでしょう。

>>ドイツ騎士団について

私も詳しい訳では有りません。野蛮人で有ったゴート人が、ひょんなことでキリスト教に改宗しますが、それで野蛮が取れた訳では有りません。逆にキリスト教を口実に、周りの地域に侵略・略奪をします。十字軍から植民地支配とずっと野蛮の本性は消せませんでした。

その点では、ラマ教を信じた蒙古人の方はかなり変わりました。これが民族の性格によるものか、宗教の違いなのかよく分かりません。

只、民族の性格は民族抗争により培われるものだと思います。ユーラシア大陸の中央部で生きて行くには、日本の自然環境どころではない過酷な試練があった筈です。

ゲルマン民族と云う幻想とキリスト教

>>民族の性格は民族抗争により培われるもの
 「環境等生存の厳しさに比例して、民族の狡猾さの度合いが増減する。」と思いますので、全面同意。
 
>>ユーラシア大陸の中央部で生きて行くには、日本の自然環境どころではない過酷な試練があった筈
  違いは、日本民族の最強の相手は普段は穏やかな大自然の脅威ですが、大陸の民族の場合は、他民族全てと云う違いがあると私は思っています。

 どちらがより厳しいかと云えば、キット生存競争の方でしょう、戦いの勝者・敗者の行方の定めは、両者が事前了解事項だと思いますが、オソラク、憎い相手なら兎も角、尊崇したり、親近感を感じて居た方が辛かったでしょう。 食人や人的犠牲を捧げる事を肯定する背景もここら辺に有りそうです。


 ドイツ騎士団は、神聖ローマ帝国を支えた3大騎士団の一つですが、他の2つがロマン人、ラテン人なのに対し、ドイツ騎士団だけ、ゲルマン人の集団で、「北方の蛮族」として見下されて、共同作戦を拒否されたり、差別されて居た様子が窺えます。

 まぁ、ゲルマン民族と云う括りすら、中華民族、漢民族の様な意味合いしか持っていないのです。 古代から欧州半島は民族の移動が頻繁に起こっている事から、純血種を保つことは殆ど奇跡に近い話だし、もし、純血種を守ろうとしたら、その民族は早晩絶滅して居た筈。

 アーリア人「=高貴な人」と云うのも、ヒトラーの願望に過ぎない事を知れば、白人優越主義は、同じコーカソイド種の先文明を築いた青人文明に対する劣等感の裏返しでしかない。 逆に同じ白人種でも、ゲルマン人が劣等種と見下してきたカザール人を殊更に、キリスト教徒の敵に仕立て上げて、殺戮したのも、近親憎悪のなせる業でしょう。

 キリスト教も彼らを教化できていません。 仏教とキリスト教の原教的差異は殆どないのに、表出しているモノが是ほど違うのは、単に、各々の民族が独自に持っていた常識による解釈・認識の差によって変質させられたたと言う他はない。

Re.ゲルマン民族と云う幻想とキリスト教、ナポレオン・ソロ様

>キリスト教も彼らを教化できていません。 仏教とキリスト教の原教的差異は殆どないのに、表出しているモノが是ほど違うのは、単に、各々の民族が独自に持っていた常識による解釈・認識の差によって変質させられたたと言う他はない

つまりゲルマン民族もシナ人も大差ない。否、宗教も受け付けなくなったシナ人の方が淘汰が進んでいるのかも。

仏教よりキリスト教が先に日本に伝来していれば、キリスト教も違った形になっていたと思います。でも哲学的要素から言えば仏教の法が奥が深いので、先に仏教が入って良かったと思います。『キリスト教徒は無限の命を授かるんです』なんて言われてもね。

日本人が原理主義的にならなかったのは、仏教が先に入ったことと、日本人の特性=人種抗争も無しに1万年以上も同じ土地に住んでいたおかげで、契約の概念も不要なら、自己弁護と他人に説明する思想も持たなかった、になったと思います。

日本では全て阿吽の呼吸でうまく行きます。これから日本人が外国人に言う言葉=『空気を読め』でしょうか。

マッカーサーの2つの顔

日本にとってのマッカーサーは2つの顔を持つ。一つの顔は、焚書・検閲まで行って日本国民を洗脳し、日本の自立を否定する日本国憲法を作り、それを日本に押し付けて、永遠に日本を立ち上がれないようにした策士としての顔である。日本が未だまともな独立国では無いのは、勿論日本国民の責任であるが、マッカーサー策某が上手だったからでもある。

そしてマッカーサーのもう一つの顔が、米国議会上院の軍事外交合同委員会で『彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです』と証言した、日本の良き理解者の顔である。

この事により、人によりマッカーサーの評価が分かれたり、日本人に接して変わったのだと言う人もいる。確かに米国議会上院の軍事外交合同委員会でのは引退後の事であり、古さ順からいったら日本統治により考えが変わったように見える。

しかし『日本の戦争は自衛の為だった』との証言は、そのときの彼の置かれた立場から見ると、自分を辞めさせたトルーマンへの政策批判であり、宛て付けでは無いだろうか。

それは同じ日の証言に、『太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の政治的過ちは共産主義者を中国において強大にさせたことだと私は考える』と言っているにも窺われる。

では、マッカサーは日本人を理解していなかったのか、以前は日本が戦争に至った理由を理解していなかったのか、と言えばそうでも無さそうである。

それは軍事外交合同委員会での証言に『いつの頃からか、彼ら(日本人)は、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです』と言ったように、かなり以前から日本人を理解していたようである。

それなのに何故占領政策に、日本人の心に戦争についての罪悪感を永遠に植えつけような工作を行ったのであろうか。しかしこれも一面、日本を理解しているのも一面ではないだろうか。つまりマッカーサーは、初めから日本の事も日本の立場も理解していながら、日本が二度と立ち上がらないよう工作をしたのである。そのマッカーサーが変質したように見えるのは、状況が変わったからである。



日本の占領政策を行うに当たって、マッカーサーには左右の腕と称された、コートニー・ホイットニー准将(GS=民生局長)とチャールズ・A・ウィロビー少将(G2=参謀第2部長)がいた。ウィロビー少将の名は、保守活動をしている者にとってはお馴染みであるが、少し説明をすると日本の赤化を止めてくれたのはウィロビー少将である。

もしウィロビー少将の働きが無ければ、教員に日教組がいるどころでは無く、日本は共産主義者が支配する国となり、勿論天皇は無くなり、神社仏閣等は全て焼き払われ、日本の歴史は全て書き換えられ、北朝鮮と大差ない国になっていた筈である。

この筋金入りの反共主義者とでも言えるウィロビー少将であるが、共産主義が肌に合わないと言うか、初めは恐らく共産主義にうん臭いものを感じていたのだろう。それが改めて共産主義者に疑いを持つようになったのは、G2が日本の司法省刑事局の『ゾルゲ事件資料』を押収したことによる。

ウィロビー少将は、ゾルゲ達の正確無比な諜報活動に驚いたが、GHQ内部の共産主義者の多さを見ても驚いたであろう。特にGS=民生局の共産主義者の多さは、ルーズベルトやトルーマン政権が、日本を赤化することで二度と立ち上がらない国とするため、共産主義者を容認したのだろうが、GSの独断専行により日本の実情にそぐわない雑多な問題が起きていた。

そししてGSへの不信と対立の中で起きたのが、朝鮮戦争である。ウィロビー少将の共産主義者への不信が確信になったときである。

当時のアメリカ政府の韓国への姿勢は半島放棄と思わせるような物だった。それが米人救出からトルーマンからのマッカーサーへの介入せよの命令となり、以外な北朝鮮軍の強さとマッカーサーの仁川上陸作戦の提言、そしてワシントンとマッカーサーとの対立から、結局はマッカーサーの仁川上陸作戦により事態は打開出来たのである。

しかしその後もトルーマンとマッカーサーの対立は続く。そして、マッカーサーは連合軍最高司令を解任される。理由はマッカーサーを自由にさせれば、中共と全面的な戦争になるからとか言われているが、マッカーサーがやらんとしたのは、鴨緑江に架かる橋を爆撃することだった。鴨緑江に架かる橋が落ちれば共産軍の進撃は鈍る。しかしそれをワシントンは許可せず、マッカーサーを解任したのである。

それが米国議会上院の軍事外交合同委員会でのマッカーサー証言に繋がる訳であるが、果たしてマッカーサーの解任理由が、第三次世界大戦を防ぐ為だったのだろうか。ウィロビー少将は、中共軍が鴨緑江の橋が落ちることを警戒して6ヶ月も待機していたのに進軍を開始したのは、鴨緑江の橋が聖域であり続けるとの情報が中共に伝わったからだろうと推測する。

と言う事は、マッカーサーを解任したのは、トルーマン大統領の周りにいた共産主義者による策謀によるものと考えてもおかしくはない。否トルーマン自身が共産主義者であった可能性も否定できない。

朝鮮戦争と平行して、アメリカではマッカーシー共和党議員によるマッカーシズム(赤狩り)が行われ、共産国を敵とする冷戦構造が始まる訳であるが、ではアメリカ人の共産主義者、ワシントンに巣食っていた共産主義者やGHQ内部にいた共産主義者とは何だったのであろうか。

アメリカの共産主義者の中には、ロシアからアメリカに帰化し、軸足がアメリカより祖国ソ連に有ったアメリカ人も確かにいる。ゾルゲ事件公表を猛烈に抗議し、朝鮮戦争でアメリカと戦った中共軍総司令・朱徳に、自分の遺骨と全財産を送ったアメリカ人ジャーナリスト・アグネス・スメドレー女史のような人間もいる。

彼らはマルクス・レーニンの信奉者だったのかも知れない。だが日本国憲法の作成を指揮した、GSのホイットニー少将やケーディス大佐はどうであろうか。彼らの組織GSは共産主義者達の巣であった。GSには、ルーズベルト政権が行ったニューディール政策を支持するニューディーラーが多かったとされるが、これもニューディーラーと言う皮を被った共産主義者のことである。

しかしながらホイットニー准将もケーディス大佐も赤狩りで追放された訳ではない。ケーディス大佐が失脚したのは、ウィロビー少将の画策したスキャンダルによるものであるが、当然反共主義者のウィロビー少将が画策したとなると、ケーディス大佐が共産主義者と睨んだ末のものだったであろう。

ではホイットニー准将はどうであろうか。彼はウィロビー少将が提出した『GHQ内部の左翼職員について』の報告書に激怒した。しかし、ホイットニー准将は最後までマッカーサの側近を務めあげる。ホイットニー准将のもう一つの特徴は反日なことである。ルーズベルトもトルーマンも反日であった。そして彼らも容共であった。

アメリカ人の共産主義者と反日、アメリカと反日。何かだぶって見えないだろうか。共産主義者のハリー・ホワイトがハル・ノートを書いたように、日本国憲法もホイットニー准将の部下である共産主義者達が作ったものであった。どちらも日本を破滅に導く罠であった。

マッカーシー議員による赤狩りは、極端過ぎると言われ中途半端で中止となった。それはアメリカ中枢にいる人間も追放される恐れが出てきたからと思われる。おそらくアメリカと共産主義は切っても切れない間柄なのだろう。

しかし共産主義国が破綻した現在、もはやマルクス・レーニンの教義を標榜する共産主義者は世界でも殆ど居なくなった。嘗ては共産主義者であった仙石由人も菅直人さえも、マルクス・レーニンの事は言わなくなった。

しかし、共産主義を言わなくなった仙石由人も菅直人も反日だったように、現在のアメリカにも容共のルーズベルトやトルーマンのような反日政治家や、ハリー・ホワイトやホイットニー准将のような日本を陥れることを画策する人間はアメリカに一杯いる。仙石由人や菅直人だってアメリカが育てた者である。

そうなると共産主義の定義をもっと拡大解釈するべきかもしれない。それならTPPやグローバル主義も共産主義と言っていいだろう。そこには必ず日本を陥れる罠がある。

反共思想を持つウィロビー少将のおかげで日本はかなり救われた。と言ってもウィロビー少将とて親日とは言えないだろうが、朝鮮戦争がウィロビー少将の活躍を後押したように、現在のアメリカが日本を支援しているのは、膨張する支那の方が危険と感じているからにすぎない。

アメリカが日本を支持しているように見えるのは、アメリカが持つ2つの顔の一面を偶々見せだけである。それは、日本の破壊者と日本の理解者としてのマッカーサーが見せた2つの顔と同じである。


著者C・A・ウィロビー:山川図書出版

タタール人は侵攻し、征服した地域を略奪して荒廃させた後、征服地に重い、しばしばし耐え難い貢物を課して、アジアの草原地帯か、遊牧民の国に引き揚げるかである。これに対してチュートン人やリヴォニヤの騎士たちは、征服した国々を組織的に殖民地にし、その人民を奴隷化し、全ての民族的な諸特徴、宗教、社会秩序を破壊した

これは講談社学術文庫『山内進著:北の十字軍』の中にある、タタールやドイツ騎士団に侵略されるロシアを描いた一節であるが、ドイツ騎士団のやりかたとGHQの日本支配が、良く似ていると感じないだろうか。

ドイツ騎士団が破壊に使った武器はキリスト教であったが、GHQの場合は共産主義であった。否、GHQが持ち込んだ民主主義、個人主義なども、日本の民族的社会秩序を破壊する武器だったのだろう。

そう感じれば、破壊は現在でも続いているように見える。GHQにより偏向させらたマスメディアが、グローバル主義を礼賛し、国を愛政治家がいると偏狭なナショナリストと烙印を押し、国民意識を否定し、地球市民であることを意識させようとしているのは、GHQのシナリオに則ったものと見える筈である。

アメリカをよく知るべきである。と言っても、アメリカと手を切るべきと言っている訳ではない。残念ながら此処しばらくは手を切れないだろう。勿論現在自衛隊の兵器は米軍仕様、またアメリカが世界第一の軍事大国だからでも有るが、アメリカが衰退して支那のGDPが上になったとしても、しばらくは手を切るべきでは無いだろう。

その時は日本がアメリカを支援することになるだろう。それはドイツがギリシャを切れないのと同じである。切ることは『唇亡びて歯寒し』だからである。当然日本は、アメリカの二面性を理解して付き合うべきである。アメリカと手を切らなくても、日本が自尊自立の道を歩むことは出来る。否、そうすべきである。

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無題

アメリカの本音は、竹島は韓国がとった方がよい。そして資源は俺が貰う。
尖閣は絶対にシナにはやらない。そんな事したら、資源が俺の物でなくなってしまうではないか。(まあ資源だけでなく軍事上のこともありますが。)

ヒラリーが日本に味方してくれたと喜んでいる保守派がいますが、なんとおろかな。
ヒラリーはアメリカの国益を言っているに過ぎない。
マッカーサーだって日本のために言ったのではない。国益のためでしょう。

Re. 八目山人様

お久しぶりです。

>アメリカの本音は、竹島は韓国がとった方がよい。そして資源は俺が貰う。

韓国はアメリカと共同で日本海側のメタンハイレードを開発するようなので、現在の本音は、そうなのかも知れません。昔の曖昧な態度は、日韓離反のためと思います。

>マッカーサーだって日本のために言ったのではない。国益のためでしょう。

マッカーサーの発言は、退役させられたあてこすりでしょう。

ジョセフ・ナイが『従軍慰安婦問の歴史修正は許さない』のようなこと言っていますが、共産主義者と同じ口ぶりです。アメリカにとって日本人の洗脳が覚めたら困るわけです。

日本人洗脳工作は、アメリカの国益の為などと言う上品なものより、ドイツ騎士団による被征服民にたいするキリスト教化策と同様、被征服民を奴隷にすること、即ち欲の為です。

米国へ深まる失望

 私は、米国は、様々な利権集団の複合体だと思って居ますので、いろんな顔に瞬時に変わるし、同時に2つ以上の顔を示す事だってある変幻自在の妖怪変化の様な国だと思って見る事にして居ます。

 マッカーサーの真の顔は、フィリピンの独裁者ですから、開戦から暫くして九死に一生の目に遭わされた事の恨みは深いものが在ったと思います。 フィリピン奪回を誓った「I shall return]の言葉は余りにも有名ですよね。

 唯、マッカーサーは個人ですから、一度変化すれば元に戻る事は余りないでしょう。 彼のバーン神父等からの説得、正論は聞き入れた様ですし。

 米国は、50万人以上の非戦闘員を焼夷弾と原爆でホロコーストに架けた残忍さと、バーン神父の様な正論と正気に応答出来る常識も併せ持って居ます。

 唯、残念なのは、此の度NY州上院は、日本軍が行ったとされる戦時慰安婦の強制連行の韓国側の主張を全面的に受け容れ、日本軍の「人道に対する罪」を非難糾合する決議を可決したらしい。

 正義の味方のつもりなのでしょうが、自分達の祖先が日本に行った残忍な行為を棚に上げて、「人道に対する罪」も無いもんだ。

 然も、売春婦は公募していたが、求人に対して応募が圧倒的に多かった事の証拠は幾らでもある。 亦、その売春制度を一番利用したのは、他でもない米軍兵士であった事実は知って知らないふりをしているのか。

 それなら「蒙昧無知」「恥の上塗り」そのままの、決議だと言えましょうが、是は亦、米国人が如何に単純な正邪の判断しかできない鴨示している事になりますね。

 詰まり、「幼稚で分別が着かない国民なのだ」と、証明している様なものです。

Re. 米国へ深まる失望、ナポレオン・ソロ様

> 唯、マッカーサーは個人ですから、一度変化すれば元に戻る事は余りないでしょう。 彼のバーン神父等からの説得、正論は聞き入れた様ですし。

マッカサーの変化は、ワシントンからの冷遇と実際の日本人に接したのと、両方があるかも知れません。

> 唯、残念なのは、此の度NY州上院は、日本軍が行ったとされる戦時慰安婦の強制連行の韓国側の主張を全面的に受け容れ、日本軍の「人道に対する罪」を非難糾合する決議を可決したらしい。

問題なのは、支那人、朝鮮人の大量流入でしょう。朝鮮人の圧力により不法移民も正規の移民と同じ扱いになるように法改正がなされるようです。

このまま行けば、アメリカは支那人、朝鮮人に乗っ取られると思います。彼らの尻馬に乗って、日本叩きを行っていますが、いずれ自分達に災いが及ぶとは知らないでしょう。

アメリカ政府が慰安婦問題で韓国側に立つなら、日本は覚悟を決めて断固アメリカとは手を切るべきと思います。

キリスト教という悪夢

新約聖書を読んでみますと、キリストさんは当時の寄進信者、律法信者が大嫌いだったからそれに反抗したのだと読めてしまいます。

「金払えば救われるのか、ガチガチの法律だけ守っておれば救われるのか。違うだろ」とユダヤ教に反発して結果的に秩序を乱したと目され磔になった。

それを思い出したかのように妥協できない怒りを爆発させたのがルターだったような・・・

免罪符なんて日本の神社のおみくじくらいに考えられなかったのかな。「お互い人間だから生活もあるしね・・・」くらいの思いやりも持てなければそりゃ年中ケンカだろ。

プロテスタント系のカルトの多い米国は上記のような想像をすると実に痛ましい人たちのような気がします。よけいなお世話かな(笑)

『嘘だらけの日米近現代史』(倉山満著)によると、南北戦争の勝者北部は東京裁判そっくりの裁判をして戦闘に負けた南部を徹底的に痛めつけたそうですね。

自分に自信がないのでしょう。だから、相手の手足をしばって抵抗できない状態にしたうえで「な、お前が間違ってたんだ。そうだろ?認めろ」と迫るような「卑怯ないじめっ子」でしかない。だから、その後朝鮮戦争で日本の置かれていた立場に遅ればせに気づく。もっと早よ気付けよ、と今言ってもしかたないですが。

マッカーサーという人は、天皇陛下という高潔な君主の人格に打たれ徐々に感化されて日本びいきになったと「マッカーサー回顧録」を読む限り私は感じました。むろん、昭和天皇だけでなく、終戦前の戦闘力の手ごわさや駐留中に見た日本人の高潔さにも感化されたのだろうと想像しています。

先の話に戻りますと「神仏習合」をやった私たちの祖先は、一神教の「純粋さ」の観点から見るとひどくいい加減に映るかもしれませんが、争いを避ける知恵者だったのではないかと思います。(これ、いつも私のクラスの生徒に笑いながら一年に一度は話すことにしています。)

おおらかさのほうが人間の側の理論的整合性を軽くしのぐと私には思えるもので。

その点、我が藩が明治期にどこよりも激しく廃仏毀釈をしてしまったことに「なんということだ。おかげで現代では文化財過疎地になってしまったじゃないか・・・」と嘆かわしくも思うものです。

米国は建国時のインディアン虐殺のトラウマから逃れられておらず、国民のDNAになっていないか。「内心後ろめたいのだ」と私は見ています。金や力の保持者となることが God bless me.の証明とでも?それはキリスト教風にはどうなんだ?

アメリカ人にいじめられたら上記のように匕首を突きつけようと決意したのがはや40年前(笑)

ニュースに流れるアメリカはアメリカ社会の勝利者である一部かもしれません。私は学生時代にアメリカ人留学高校生たちを多数見て話す機会があり、「ヤンキーなんて一部なんだな。日本の田舎の子と同じように純朴で欲が少ないな」とカルチャーショックを受けた経験があるので、そのイメージが強く偏っているのかもしれませんが。

カーペンターズのような田舎田舎したシンガーがもてはやされた頃が好ましいアメリカです。文学だとO.Hneryかな。

Youtubeでおなじみの「テキサスオヤジ」に似た香りを感じます。

Re. キリスト教という悪夢、篠の目様

ヨーロッパ人も、十字軍のおぞましさや植民地での所業を言われれば、キリスト教徒でないのは野蛮人だとか道徳が無い民族だとは、絶対言えない筈です。

それでも彼らが人権人権と攻撃的なのは、罪の意識から逃れたいためでしょう。そんな彼らの講釈に恐れ入ってしまうのは日本人だけです。せっかく他の文化を感化出来る物を持っているのに、自信が無いから自分達で壊してしまっているのは勿体無いことです。

でも此処に来て、かなりの外国人が日本の文化を見直すようになって来ています。Youtubeなんか見ても、日本は宗教的に煩くないの良いと言いながら、日本人が宗教的行事を嬉々としてするのを見て参加したいようです。一番多いのは町がきれいだと言う評価ですが、科学技術から食文化を含めたあらゆる日本文化を見て、又日本か、やはり日本かのコメントが多くなっています。困ったことに日本に移住したい外国人が増えていることです。

それに対してマイナスの評価は、南京大虐殺や従軍慰安婦を言う人間か、白人優位から抜け出ていない人間のものだけのようです。

そんな人間の言うことは気にしないで(時々返り討ちにするとか)、評価してくれる人達の期待にそぐわないように、日本人は我が道を行くべきでしょう。自信過剰と自信喪失は同じものです。どちらも不勉強から来ています。ちょっと勉強すれば、よそ見をする必要はなくなります。

後、神仏習合ですが、神道は紙に書いた道徳規範が有りませんから、それを仏教から借りたのでしょう。儒教からも借りていますし。なので仏教も儒教も牙を抜いちゃっていますね。

只、仏教が葬式仏教だけとなり、仏教が無くなりそうなのがちょっと心配です。

よろしかったら

今年のセンター試験国語第1問の文章をごらんください。

小林秀雄の「鐔(つば)」からの出題文で、仏教が中世の人々には「音楽」のようになじんだものであったろうという考察があり、芸術的な日本人の感性を養った仏教という観点でおもしろく感じました。

私個人は「生きている限りは苦はあたりまえ。それも一過性でしかない」という認識が仏教にはあるようで、better-bestへとgreedyになりがちなキリスト教よりも好ましく感じます。チベットが中共に食い散らかされいるのが悲しくはありますが。

ブータンやネパールあるいはチベットに行くと「生きる仏教精神」にじかに接することができるのではと夢想します。

レスの最後の部分にいささか感じるところありましたので、蛇足かとは恐れつつ・・・

仏教徒が採るべき途

>篠の目さん、ソロです。
 キリスト教世界と仏教世界の死生観の差って、輪廻転生の有る無しだと思いますね。 

 原典で云うサンサーラは、最初は無垢で発生し、生命を維持できる物体に入って生命となる現象を誕生と云い、生命の危機と闘いながら成長し、他者との生存競争に苦しみ、そして、病に苦しみ、死の恐怖に戦き乍、遂には死んでしまう。 つまり、生病老死の四苦がこの世の人の姿です。 そして、サンサーラは是を永久に繰り返す現象でしょう。

 すると其処に、当然「人は何の為に生まれてくるのか?」と云う疑問が発生する。 
 
 この問題への答えがバラモン・ジャイナ・仏教・・その他で、サンサーラを前提とした推奨する生き方の差異によって、インド発生の宗教の多様性が生まれていると云えましょう。

 その一々を挙げるのは止めておきますが、この問題を考えるに先立ち、魂と云う存在を既存として認識し、且つ、存在が生命を維持する肉体の有無に拠らないという前提が存在します。

 処が、西洋は砂漠の三宗教に拠らず、魂の存在について多くを語っていません。 其処に究極、ユダヤ的唯物論が成立する土壌が在るのではないでしょうか。 西洋の差異とは、ユダヤ教徒フロイトの唯物論と、時空を超えた魂の邂逅を意識する超自我の存在を認識したゲルマン人ユングの差でしかない。

 古代東西で思想交流があった筈なのに、死生観の根本から違っているのは、理解しにくい話です。

 加えて、BC13世紀にカイバル峠を超えて侵入・侵略してインドを征服したアーリア人は、ハウスホーファーに曰く、ゲルマン人の祖先とも言われているが、サンサーラは、そのアーリア人が建てたウパニシャッド哲学からのものでしょう。

 これらの差異は、オソラク、人間の生存環境の差異から生じるものだと思います。 生存環境が厳しい欧州や中東では、自己の利益のみに拘る事を悪とし、他者の生存にまで、心を配る自己犠牲を以て善とする様な、社会は現実のものではないのだろう。

 随い、緑と水と生命に溢れた東洋には、現生で為した善行が現世で報われずとも、来世で報われるとするバラモン教や、現世で苦を生き抜いて、智を磨き、以て解脱を生じせしめサンサーラを卒業できるという仏教迄が存在します。

 一方、砂漠の多い激しい気候変化と、多くの民族の交雑点である地形、多民族故の多様な価値観の中、激しい生存競争が当たり前の中東、欧州世界では、あの世とこの世の行き来等思いもよらない話なのでしょう。

 日本社会は、生活の中に仏教が溶け込んでいます、あらゆる教えも異なる価値観も受け容れるのが、仏の教えの基本でしょう。

 然し、異なる危険なものまで放置していては、自民族が、延いては、地球が滅びるのを待つダケの様に思います。 我々人類は、来るべき人類の試練に真剣に向かい合って、一体どうするのが良いのかを考え直すべき、そして、仏教を具現化した我々仏教徒は、挙って、その人類に途を示すべきでしょう。

Re. 篠の目様、ナポレオン・ソロ

>今年のセンター試験国語第1問の文章をごらんください。

センター試験の問題は検索で出て来ませんでしたが、センター試験に出た小林秀雄の「鐔(つば)」の全文は読むことは出来ました。ウーン、何と言って良いか。たぶん0点かも。

>ブータンやネパールあるいはチベットに行くと「生きる仏教精神」にじかに接することができるのではと夢想します。
> 日本社会は、生活の中に仏教が溶け込んでいます、あらゆる教えも異なる価値観も受け容れるのが、仏の教えの基本でしょう。

チベット仏教もセイロンなどに伝わっている仏教も、結構理屈ぽいですね。又、インドでも法華経を信じる狂信的な宗派もあったようです。

それが日本でトゲが抜かれたのは、初めに入ったのが文献(経典)だったからでしょう。人が来ない分、当時の日本人は丹念に意味を理解しようしたのだと思います。

最初に伝わったのは、発句経とか阿含経の様な小乗仏教的のものと思われますので、地獄・極楽のようなものは無く、単純に『諸々の悪をなさず』と言うような、あたりまえの事が書かれた経典として重宝したのではないかと思います。

あたりまえと言うのは、魏志倭人伝に書かれているように、その頃の日本人は充分道徳的でしたから、地獄とか極楽とかアメとムチで躾が必要なのは、あまり居なかったと思われるからです。

でも結局のところ、殆どの日本人は大乗仏教の地獄・極楽を信じた訳ですが、それでも狂信的に信じる程、一般庶民に大悪党は居なかったでしょうから、脅迫観念に縛られるより、むしろ大部分の日本人は大乗仏教が与えてくれた幽界を楽しんだのと思います。

つまり信じたと言うより楽しんだ、のではないでしょうか。と言っても大乗仏教には仏教哲学が有りますので、深く学べば『地獄も極楽も無い』、『否、現世も来世も無い』と気が付くことになり、そこを通り過ぎれば単純に『諸々の悪をなさず』と当たり前の世界に戻るので、日本に入った仏教は入門編も卒業編も一貫していることになります。

でも、悟った後の当たり前の世界が『諸々の悪をなさず』になるのは、日本人だけかも知れません。

仏教が日本人に道徳を教えたというより、日本人が仏教世界を楽しんだのかなと思います。悲惨な戦争を見ても善悪に囚われず、諸行無常を感じるのは日本人の本来の姿であり、仏教がそれを後押ししてくれたものと思います。

つまり日本の仏教はかなり独自と思います。

タイ人やチベット人も諸行無常を感じるのですかね。上記の内容はあまり自信が無いのですけど、善悪の観念に陥るより諸行無常を感じ、幽界を楽しめと言いたいです。

ナポレオン・ソロ様 崗上虜囚様

センター試験で「玉砕」(?)してしまった教え子を抱え、ついつい浮かんだ一節におつきあいくださり、ありがとうございます。

今日は偶然西部邁先生と小浜逸郎先生(「歎異抄」について新版を著されたようです)の対談を視聴していました。

教学に乏しい私は、それでも学生時代に読んだ『出家とその弟子』についての話題が出てくればそれなりに聞き入ってしまう程度ですが、むしろこの手の話題に接すること自体が嫌いでないようなところがあります。

戦後が誤ったものであるなら、表面化するものについてただすと同時に、時としてわが先人たちの心のありようはどうだったのか想いを致してみるのも自然な心の動きなのでしょう。

数年前エノラゲイから原子爆弾を放った元兵士が亡くなりましたよね。同胞20万人の命を奪った憎き相手ではありますが、「どんな気持ちでその後をおくったのだろうか」と不憫にも思いました。それとも単に自分は英雄だと言い聞かせるにとどまったのか。

何も思わず感じない「悪人」は「正機説」の対象とはならないのかもしれませんね。

せっかくのマッカーサーの話題をそらしてしまったのが申し訳なく精いっぱい戻そうとしたのですが、この辺りが限界のようです。お許しください。

私のよく知らないドイツ騎士団についてなどさらにご教示いただければと存じます。

日本仏教の特異性とゲルマン人

>虜囚さん、おはようございます。
>>日本の仏教はかなり独自
 私もそう思います。 発祥地のインドを初め、他民族集合の階層社会が多く、その不平等が先ず乗り越えるべき命題であったのに、日本では、既存の神道では当り前である、「神と司祭以外は、皆平等。」と云う常識を持つ社会が土壌になったからだと思います。 其れには、3万年の長きをこの天災の多い列島で、皆で力を併せて生き抜く試練が必要だったのですが。

>>善悪の観念に陥るより諸行無常を感じ、幽界を楽しめと言いたいです。
無常観と云いますか、人間世界ダケを観るのでは無く、人間を自然の一部の現象として捉えるのは、ある意味、「人に非ざる視点」だと思います。

 是も、大自然の脅威の前の人間の力の儚さ、卑小さを思い知って絶望するが、其処に顕現された圧倒的な「神の力」と、その後の何も無かった様な平穏と修復力から、「神の意志」が、森羅万象に対する大愛である事を感取出来た経験を経ての事です。 

 人間の功利、否、生存への拘りさえも、その段階では、人間の意思や生命すら、恰も大海に風に拠って起こりそして消えてゆく一瞬の波の様な現象に過ぎない。 

 其処を無意識にでも知って居るから、亦は、理解できる土壌が在るから、篠の目さんの様に、他者の生きる苦しみに思いを寄せ、
>>「どんな気持ちでその後をおくったのだろうか」と不憫にも思いました
 と言える心を持てるのだと思います。

 こう云う精神的な土壌は、社会に永い時を懸けて根付いたもので、文章に書いた理屈では身に着かないモノだと思います、理解はしても自分のモノには、中々成らない。

 少年期、生まれたての子猫達を平気で殺す友人を観て、大ゲンカした事が在りますが、「俺だって好きでやって居ない、では、この子猫を全部お前が引き取ってくれ」と言われた時、何も言葉を返せず、その後ずっと悩んだ経験が在ります。

 「子猫一匹救ってやれない我々が自然を支配しているのではない」のは、確実でした。 自分の無力さや思い上がりがトテモ哀しかった。

 悩んだ挙句、学校で担任の先生に相談しましたら、「物事には容量があって、何かの恣意でその範囲を超す事は、全体のバランスを崩し更なる悲劇を発生させる、その点に関して我々は確かに無力だが、是は如何ともし難い事だ。 然し、世にはもっと悲惨な事が日々起こっているが、是等の多くは我々が気を着けて居ればある程度防げる事だ、それに気が着けないのは、目を開けながらも目を閉じて居るのと同じだからだ、詰まり、事象を観る智を養わねば、何も見えない。」 と言われました。

 この認識は、後に、愛さえも「我執」として、ネガティブに捉える仏の教えが、その智を得る事で執着を越えられると云うものである事を理解する際に役に立ちました。

 結局の処、この世に生まれてくれば、生き物としての限定、即ち、食べねば死ぬし、呑まずとも死ぬ、些細な事で生物は死ぬと云う限定の中で、生きて、否、生かされているのです。 

 釈尊は、大きな自然の中の私は、の御意のママに生かされる地球の欠片にしか過ぎないが、生ある裡に智を得る事で、我の本体である魂は、その境遇を脱し、仏となる事が出来ると教えます。

 今生を限りと前提する、西洋の死生観では説明できないモノです。

>>ドイツ騎士団について
 スイマセン、私も知りません。 プロイセンの歴史に着いての掘り下げは是からです。

 唯、私個人、ドイツに着いては、発見がありました。 此の処、ヒトラーが云っていたアーリア人=ゲルマン人とは、全くの彼の願望に過ぎなかった事を確認しました。 そして、ゲルマン人と云う括り自体、シナ人と云う括りと同じレベルのモノであるとも。 ソモ、ゲルマン人とは、「ケルト人とは別の人種」と云う認識で、シーザーが名付けたモノだそうで、中身は南北で人種成分が違います。 ダカラ、ヒトラーは「人種改良」の様な真似をしたのですね。

 すると、アーリア人とは一体何なのか、が、是からの私の興味の的です。 Wikiには、「BC90世紀に牧畜を行っていた」と書いてありましたね。

Re. 日本仏教の特異性とゲルマン人、ナポレオン・ソロ様

> 「子猫一匹救ってやれない我々が自然を支配しているのではない」のは、確実でした。 自分の無力さや思い上がりがトテモ哀しかった。

仏教は、愛も執着として戒めの対象ですけど、そんな事を言ってもね。でも捕鯨問題を見て分かりますが、西欧人のように愛憎深いと何事も解決できないでしょう。もっとも愛と同時に憎しみも楽しんでいるのかも知れませんけど、彼らも諸行無常の心を知るべきでしょう。

>>ドイツ騎士団について

私も詳しい訳では有りません。野蛮人で有ったゴート人が、ひょんなことでキリスト教に改宗しますが、それで野蛮が取れた訳では有りません。逆にキリスト教を口実に、周りの地域に侵略・略奪をします。十字軍から植民地支配とずっと野蛮の本性は消せませんでした。

その点では、ラマ教を信じた蒙古人の方はかなり変わりました。これが民族の性格によるものか、宗教の違いなのかよく分かりません。

只、民族の性格は民族抗争により培われるものだと思います。ユーラシア大陸の中央部で生きて行くには、日本の自然環境どころではない過酷な試練があった筈です。

ゲルマン民族と云う幻想とキリスト教

>>民族の性格は民族抗争により培われるもの
 「環境等生存の厳しさに比例して、民族の狡猾さの度合いが増減する。」と思いますので、全面同意。
 
>>ユーラシア大陸の中央部で生きて行くには、日本の自然環境どころではない過酷な試練があった筈
  違いは、日本民族の最強の相手は普段は穏やかな大自然の脅威ですが、大陸の民族の場合は、他民族全てと云う違いがあると私は思っています。

 どちらがより厳しいかと云えば、キット生存競争の方でしょう、戦いの勝者・敗者の行方の定めは、両者が事前了解事項だと思いますが、オソラク、憎い相手なら兎も角、尊崇したり、親近感を感じて居た方が辛かったでしょう。 食人や人的犠牲を捧げる事を肯定する背景もここら辺に有りそうです。


 ドイツ騎士団は、神聖ローマ帝国を支えた3大騎士団の一つですが、他の2つがロマン人、ラテン人なのに対し、ドイツ騎士団だけ、ゲルマン人の集団で、「北方の蛮族」として見下されて、共同作戦を拒否されたり、差別されて居た様子が窺えます。

 まぁ、ゲルマン民族と云う括りすら、中華民族、漢民族の様な意味合いしか持っていないのです。 古代から欧州半島は民族の移動が頻繁に起こっている事から、純血種を保つことは殆ど奇跡に近い話だし、もし、純血種を守ろうとしたら、その民族は早晩絶滅して居た筈。

 アーリア人「=高貴な人」と云うのも、ヒトラーの願望に過ぎない事を知れば、白人優越主義は、同じコーカソイド種の先文明を築いた青人文明に対する劣等感の裏返しでしかない。 逆に同じ白人種でも、ゲルマン人が劣等種と見下してきたカザール人を殊更に、キリスト教徒の敵に仕立て上げて、殺戮したのも、近親憎悪のなせる業でしょう。

 キリスト教も彼らを教化できていません。 仏教とキリスト教の原教的差異は殆どないのに、表出しているモノが是ほど違うのは、単に、各々の民族が独自に持っていた常識による解釈・認識の差によって変質させられたたと言う他はない。

Re.ゲルマン民族と云う幻想とキリスト教、ナポレオン・ソロ様

>キリスト教も彼らを教化できていません。 仏教とキリスト教の原教的差異は殆どないのに、表出しているモノが是ほど違うのは、単に、各々の民族が独自に持っていた常識による解釈・認識の差によって変質させられたたと言う他はない

つまりゲルマン民族もシナ人も大差ない。否、宗教も受け付けなくなったシナ人の方が淘汰が進んでいるのかも。

仏教よりキリスト教が先に日本に伝来していれば、キリスト教も違った形になっていたと思います。でも哲学的要素から言えば仏教の法が奥が深いので、先に仏教が入って良かったと思います。『キリスト教徒は無限の命を授かるんです』なんて言われてもね。

日本人が原理主義的にならなかったのは、仏教が先に入ったことと、日本人の特性=人種抗争も無しに1万年以上も同じ土地に住んでいたおかげで、契約の概念も不要なら、自己弁護と他人に説明する思想も持たなかった、になったと思います。

日本では全て阿吽の呼吸でうまく行きます。これから日本人が外国人に言う言葉=『空気を読め』でしょうか。

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