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崗上虜囚の備忘録

日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください

用の用、無用の用、無用の無用

『日本の農産物は高い。国民は高い農産物を無理やり買わされている』と言う人がいる。『働いても税金で持っていかれるから小さな政府にすべきだ』と言う人もいる。ちょっと待って頂たい。そんな人には『お前さん。あんたはどのような生産活動をしたんかい』と逆に聞きたい。

自分の過去を振り返れば、盆正月も無く休み無しに仕事をしたことも有った。誰よりも先に出社し最後に会社を出ることを続けたことも有った。しかし片隅では、この仕事が生産活動と言えるのか、無くてもよい仕事ではないかと、常に疑問に感じていた。

封建時代の農民は、一次産品だけなく加工品も作り、年貢まで納めていた。農村は一大生産拠点だった。人間はメシを食べなければ活動は出来ない。封建時代では商も工の活動も農民の生産物の上に成り立っていたのだ。

現在は、経済活動との名の下に、給料を貰っていれば何やら生産活動を行っているように見える。確かに物流が止まれば農業の生産力も落ちる。複雑な現代社会では、無用な仕事と有用な仕事の切り分けは出来ない。しかし現代でも、働けるのは農民が作った物を食べているからであることにはかわりがない。

尤も現在日本のカロリーベースの食料自給率は39%(2007年度)。穀物自給率が27%(2003年度)なので、日本の農産物など食べなくても、食料など世界中どこからでも手に入れられると言う人もいるかも知れない。でも昔を知る人は1973年のソ連の不作による穀物大量買い付けが要因による、アメリカの大豆禁輸措置と食料危機を覚えている筈である。穀物は、事が起きたときには自由に買うことが出来ない戦略物質なのである。

しかし、このエントリーで言いたいのは、農業が如何に大切かが言いたいのもあるが、農業に従事せずに農産物を食している人間どのような付加価値を作って食べているかである。それは農業の生産性向上により出た余剰人員達の仕事の話である。

カロリーベースの食料自給率は39%と言っても、実際は、コンビニやファーストフード店での大量処分や破棄を勘案すると、日本のカロリーベースの食料自給率は50%を超えると言われている。日本の農業就業人口は300万弱。労働人口の5%程度でなので、耕作地さえあれば、10%程度の農業人口で90%の労働者とその家族を食べていかせることができることとなる。

勿論、農業になんらかの補助する人間がいなければ農業生産もおぼつかないが、それ以外の労働者は農業とは関係ない仕事をしても良いし、遊んでいても食べて行ける筈である。

でも、汗水垂らして労働している農民にとって、遊んでいる者を食べさせているのは面白い筈がない。遊んでいる者への農産物の供出は拒むであろう。そこで遊んでいた者は、止む無くなんらか付加価値のある仕事を見つけて農民に報いることになる。とは言っても農民に報いる仕事はそんなに沢山無い。農民に報いる仕事をやっている人に報いる仕事、その報いる仕事をやっている人に報いる仕事と、終には農業とは関係な仕事の方が大きくなってくる。

そして、私のように付加価値のある仕事をやっている振りをして食料を得る人間も現れるようにもなる。かなり荒っぽいが、これが現在の経済の構図である。そして、経済の根幹は食料ということである。石器時代の経済を考えれば、もっと単純に、食料を得ることが即経済活動で有ったことが分かる。

しかしながら、人間腹がくちくなれば『人はパンのみに生きるにあらず』などと言って、別の価値観を見つけようとする。その発展が文化であり、経済活動の隆盛である。が、元は人間活動のエネルギー源、食料である。ならば当然、食料生産をしている者、その生産物には感謝があってしかるべきである。自分がどれだけ有用な事をしているか知るべきであろう。

石器時代より複雑になったはといえ、少なくとも江戸時代の人はそれが分かっていたと思われる。江戸の数学者関孝和は『算術には用の用、無用の用、無用の無用がある』と言ったのは、算術だけではなく物事全般を言ったのだろう。はたして『無用の無用』が、関孝和自身が考案した行列演算や三次方程式の解法等を指しているのかどうか分からないが、彼が『無用の用』たらんと思っていたことは事実だろう。

それでも、幾ら人が有用な仕事をしようとしても、自分で仕事を作り出せる人は僅かである。そこで政府の出番となる。
上の図は、主要国の政府支出の比較である。日本のそれは悪名高い特別会計も入れての数字であるが、何処の国も政府支出はGDPの40~50%程度もある。この数字を見ると何処の国も政府がかなりの雇用を生みしている事がわかる。即ち国が仕事を作っているのである。

だから、政府支出のGDP比が如何に高くても、封建時代の年貢のように考えてはいけない。政府支出が如何に少なくても、全ての国民が有用な仕事をしていなければ、有用な仕事をしている者は不平等を怒るだろうし、国全体の豊かさも得られない。

為政者のするべきことは、如何に全国民に有用な仕事をさせるかである。

まあ、言いたかったのは『農業を馬鹿にして、農業を無くすようなことをすると全てを失いますよ』と『如何に収入が多かろうと、如何に生産性を誇ろうと、用の用、無用の用、無用の無用を念頭に置いて仕事をしなければ、社会全体がうまく行きませんよ』である。

経済の根幹は食料とは言っても、米本位制の江戸幕府は立ち行かなくなった。その話はその次に。


           
          関孝和           円周率の算出方法と行列演算。
この手の人はメシさえ食わせれば、大発明もやってのける。尤も普通の人でもメシを食わせ、それに酒を加えれば、それなりの仕事をする人はいる。

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コメント

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無題

崗上虜囚さん

農民をそこまで褒めていただきましてありがとうございます。

「用の用、無用の用、無用の無用」という言葉はなんという謙虚な言葉でしょうね。

日本人には和算というものがあったので明治になり世界に打ってでることの出来る基礎学力があったと聞き及びます。
それこそ「無用の用」であったのでしょう。

自分のしている事が実は無用の無用であるなどと言える人はなかなかおりますまい。
それこそ「おまんま、喰えなきゃ、あんた死んじまうんだぜ」というリアルを現代の日本の誰が実感できましょうや。

もっとも被災地では、それこそリアルな実感でしょうが、衣食住の大切さが見に沁みるような状態は実はそら恐ろしいことなのです。

もっとも、今の政権では有用な仕事以前の問題だということが残念でなりません。

無題

楽仙堂 さん
昔は、お米と言う字は、八十八人の人の手を経ていることを意味していると教えられたそうです。『今は頂ます』さえ言わなくなりました。いけませんね。
郷里に帰って、八十八の老婆と握手しました。手の厚みは私の倍が有るほどで、私が何の生産活動をしていなかった事が、ばれてしまったかも知れません。

無題

今は食糧に余裕がある時代なので、のんきに構えてるとしか思えませんね。だから、無用の無用も幅を利かせることができるのかもしれませんね。

ひとたび、食糧危機が訪れたとしても、急には対応できなくて、右往左往するんでしょうね。(それだけでは済まない気がしますが、、)

今、モンサントのように人間の欲の塊のような種子が幅を利かすようになってきてますが、あれで自然界に大きな歪みができた時にどうするんでしょう。

人間には、自律神経失調症という病気があります。
体の、リズムを許容範囲を越えて崩してしまった時には、もうどうしようもない状況となってしまいます。
有名なところでは、あの拒食症のような症状ですね。

人間て言うのは、不思議なもので、まるで高性能な宇宙船に心を積んでるようなもので、人間に出来ることはその体の謂わば、ハンドルを握らされてるだけのようなものです。

ひとたび、そのブラックボックスの調子を崩してしまうとどうしようもなくなって死を待つしかなくなる。

この、地球と言う生命体にも、そういった状況になることは、あり得るのではと思います。
まともな子孫を生み出すことができない種子、、なんとなく、考えるだけで歪なイメージが湧いてきます。

日本人も、バカでないなら、こんなものとは決別する勇気が必要です。
多少、高くついたとしても、自然な食料に頼るべきではないのかと思います。


スレとはちょっと、違いますが、同じ、食糧についてのことでの、最近の思いを語ってみました。

無題

杜若 様
飽食の時代と言われるように、簡単に食べることができるようになった為、現代の日本人は生物としての本能をなくしてしまったようです。
本能と言えば悪いようですが、犬猫を見ると、あまり人間が世話していない方が、子供の育て方が上手です。

TPPに踊らされて、効率の悪い農業など滅びて当然と考えていると『唇滅びて歯寒し』の時が来るでしょう。

無用の‥‥

崗上虜囚 様、皆様、こんばんは。

今回は、難しいお題ですね。

職業柄、世の中にいらない職業は無いと思っています。

建設業は、色々な分野が助け合って初めて良い物が出来ます。
交響楽団で一緒に仕事をしているのと同じです。一つでも不協和音がでるとコンサートはオシャカになります。裏方さんも重要です。隠れた縁の下の力が、晴れの舞台を用意してくれます。
建設現場の宿舎の調理のオバチャンや街の飲み屋のネーチャン、そしてプロの女性…。

こんな風に私は考えています。
皆さんには、違う意見もあると思いますが…。

私の考えの行き着くところは、
893さえ社会から必要とされているから無くならない
、に行き着きます。あくまでも日本人の893に限りますが。

反対の声が聞こえてきそう…。

歴史をひも解けば、漢族の戦国時代の歴史書の中に任侠列伝がありますし、本邦の鎌倉末期の悪党も893です。
鎌倉は、楠木氏を正規の武士とはみていません。だから悪党です。
江戸時代では、旗本奴の横暴に町奴が。
終戦直後は、朝鮮進駐軍に日本893が。

この様に、日陰者だと蔑むより庶民は内心認めてきたから無くならない。と考えています。

無題

酒と泪と 様
昔の893は謙虚でしたよね。自分で日陰ものだと言っていました。それでいて誇りを持っていました。家の近くに飛車角が住んでいたと聞いたことがあります。

日本人の893がおかしくなったのは、アメリカからが煩く言ってきた後です。朝鮮人に乗っ取られてからおかしくなったのか、アメリカの指導で組織を破壊されたからか、不明ですが、以前は警察も通通で犯罪者の情報も893から入ってきました。検挙率が落ちたのは、それからです。

色々の文化が無くなっています。代わりに登場してきたのが、謙虚でないプロ市民。

訂正:日本人の893→日本の893

無題

職業に貴賤はないが、その必要性にはおのずから軽重がある、とでも言いましょうか。

ものの考え方によって若干の相違はあるかもしれませんが、一定の序列をつけておかなくては火急の際に混乱します。

昭和期のある作家も戦時中は「文学は平和なときの仕事だ」と言って従軍記者のしごとに粛々と就かれた由。

「士農工商」は絶妙のバランス感覚によるものでしょう。兵と食にかかわる人を重視し、お金にかかわる仕事に過剰な価値を置かなかった。金融大資本に牛耳られた現代の米英はこれを何と聞きましょうか。

職業選択の「自由」とは言いますが、現実には好きなことで食べていける人は限られています。いずれにせよ、職は食を保つうえで貴賤はありません。

しかし、どの職にあろうとも、生存の根底にある農を大切にしないと国として大変なことになりますね。

それを象徴するのが「勤労感謝の日」が「新嘗祭」であることでしょう。

ちなみに最近生徒の一人(中学2年生)に質問したところこのことを知りませんでした。大人としてさりげなく伝えていきたいことだと思います。

無題

篠の目 様
>それを象徴するのが「勤労感謝の日」が「新嘗祭」であることでしょう
知りませんでした。
日曜日とかち合うとずらすなど、今は日本の祭日が全て只の休日のようになっています。恐らく、日本の文化を破壊するのが目的の作為的なものでしょう。

無題

>恐らく、日本の文化を破壊するのが目的の作為的なものでしょう。

それが危惧されますね。NHKなら、前日から「○月○日は○○の日です」と謂れを紹介してもよいくらい。

ところで、酒と泪と様ご言及の話題ですが、これも高校生以上限定で必ず一年に一度触れることにしています。

「世の中は一筋縄の解釈じゃわからないよ」と伝えるためにも。

また、建設業とのお話で思い出したのですが、東大京大レベル限定で「談合ってさ、ワークシェアリングの日本版だと思わんか?いちがいに悪いって言えるかな?」と挑発することにしています。

どうも一人小論文で書いた奴がいたようで・・・合否を覚えていないのが残念ですが、落ちた場合覚えているものですから、たぶん通ったのでしょう(^_^;)

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