http://kojoryoshu83.edoblog.net/%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%83%BB%E7%B5%8C%E6%B8%88/%E7%B6%9A%E3%80%81%E7%94%A8%E3%81%AE%E7%94%A8%E3%80%81%E7%84%A1%E7%94%A8%E3%81%AE%E7%94%A8%E3%80%81%E7%84%A1%E7%94%A8%E3%81%AE%E7%84%A1%E7%94%A8続、用の用、無用の用、無用の無用
経済の根幹は食料とは言っても、米本位制の江戸幕府は立ち行かなくなった。江戸幕府は日本人のもっとも重要な食料である米を支配することで、国民を支配しようとしたが、立ち行かなくなった。腹が一杯になれば人の欲するものは別のものに移る。米を幾ら量産しようと、生憎人間の胃袋は一つしかない。
飢えていたときは、あれほど欲しかったメシも『もうゴッツアンです』となる。次の欲は、メシよりもお茶、お茶よりも器、そして釜、掛け軸、茶室等、食料とは別の方向に向かう。こんどの欲は胃袋が相手ではないので、果てしがない。取引される金も食料品どころでは無い。米の経済規模が一定でも、趣味嗜好の経済規模は拡大する一方となる。かくして江戸政府と農民は取り残された。米本位制の崩壊、江戸幕府の倒壊である。
経済は欲望のバブルなのである。17世紀にオランダで起きたチューリップ・バブルが悪しき例として引き合いに出されるが、価格が下がったから問題にされるのであり、価格が下がらなければ、それはオランダのGDP向上と文化向上に一役かっていた筈である。
人間の欲望は、文化とも密接に関係している。16世紀来日したバテレン達は、茶器が一国に相当する金で取引されるのを驚いていた。それに対して大名は『あんた方は、なんで石ころ(宝石)に高い値段をつけるのだ』と一蹴している。欲望の違い、文化の違いである。だから粗末な茶碗に高値が付けばGDPも上がる。
ともあれ、農本主義とでも言える江戸幕府の財政は農業生産に立脚していたが、農業以外の経済規模が大きくなるにつれ、国を経営する資金が足りなくなり破綻せざる得なかった。今風に言えば江戸幕府は小さな政府である。税収は農業生産高の何割かだけだった。
士農工商の身分制度は、江戸幕府の農本主義の思想を意味している。厳しい身分制度が有ったが、庶民は幸せだった。江戸時代を見た欧米人は皆そう言った。『庶民に生まれるなら日本人の方が良い』『日本人より幸福な民族はいない』『一度も生活の悲惨を目にしたことは無い』『死亡率はボストンより低かった』等々。
江戸幕府は経済破綻していたが、一番の問題は科学技術と軍事で西欧に遅れを取ったことである。それでも明治の成功は、江戸幕府の農業政策の成果があったからこそである。そして明治以降の日本の政府は大きな政府となった。今は政府の支出がGDPの40%以上ある。
大きな政府は日本だけでは無い。でも国民は江戸幕府と同様、経済の根幹は食料であることを意識していなければならない。
前のエントリー『用の用、無用の用、無用の無用』では、経済の根幹は食料であると説いた。仕事をする人は、用の用、無用の用、無用の無用を念頭に置いて仕事をすべきと言った。又、国(政府)の役割が如何に国民に有用な仕事をさせるかにあるとも言った。そして此のエントリーでは、食料=米を重視していても江戸幕府が立ち行かなくなった例も示した。人間の欲望が経済活動であり、それはバブルであり、文化とも密接に関係していることも言った。
現在の日本政府は、これ等を意識して政策を行っているだろうか。それどころか現在、政府は破綻寸前だと言う。破綻寸前のため何も出来ないと言う。食料が充分あるのに、財源が無いので職の無い国民のために有用な仕事を与えること等できないと言う。
国民の中には政府の財政状況を心配して増税賛成者がかなりいる。彼等は自分達の生活を切り詰め、政府に協力する気である。国民には国家観があるが、処が今は政府の側に国家観が無い。増税はするが、仕分けと称して節約して、国はなるべく何もしない方針のようである。そのくせ子供手当てや高校無償化のばら撒きをする。何のことは無い、国民の生活や国を守るのでは無く、政府自身を守りたいようである。
政府支出がGDPの42%。その一部が赤字国債発行によるものだとしても、失業者も飢え死にするような事もなく、外国から借金をすることも無く、それが何年も続けられたことは、物理的には生産余力がまだ有るということである。
江戸幕府は潰れたが、田園や文化を遺産として残した。なら政府が潰れることなど心配せずに大増税でも赤字国債の大発行でもして、国民に仕事を与えるべきである。増税しても年貢と違い、全て国民に帰って来るのである。赤字国債と言っても投資である。
政府が与える仕事なら、当然『用の用』や最低でも『無用の用』にこしたことは無い。しかし『無用の用』と『無用の無用』の間には境目など無い。この境目には新たな文化の芽が眠っているのだ。日本に新たなチューリップ・バブルが起きれば、それは新たな文化の発生であり、経済規模の拡大になる。現政府が潰れても、文化の遺産は残せる。
新たな文化が起これば、そのうち国民自身が欲を出し、政府の仕事に飽き足らず自分で仕事を見つけるだろう。何回も言うが、一番駄目なのは国民が仕事をしていない状態である。
しかしながら、日本人は無一物の文化も知っている。最低限の食料さえあれば、生活を楽しむことができることも知っている。GDPの空騒ぎに背を向けるのも悪くは無い。華やかに金を掛けた文化と質素で素朴な文化、大きな政府と小さな政府、どちらの道を行くのも日本人の自由である。
とは言え、日本がどの道に歩もうと、それを守る軍事力と食料とエネルギーだけは確保しなければならない。この点に関しては国民は働かなければならないのである。反日朝鮮人政党の民主党政権に、何を言っても無駄であるが。
後書き:
『用の用、無用の用、無用の無用』の題は、分かりににくかったようだ。
言いたかったのは、「大きな政府にしたとき、必ず格差が生まれる。片や補助金漬け。片や全て自前。片や潰れる心配がない職。片や倒産を心配しなければならない職。放っておくと国民同士がいがみ合い、国の荒廃にも繋がる。金など雪の吹き溜まりと同じと割り切り、どのような職に付いても、謙虚に『用の用、無用の用、無用の無用』を念頭において仕事をすれば、多少うまくいくだろう」である。
身分制度があった江戸庶民が幸せになれたんだ、出来ない訳が無い。
補足:
現在、小さな政府を推奨する人がいますが、その中にはグローバル主義者がいます。彼らの考えは、国境を無くそう=国を無くそうですから、注意が必要です。
利休が所持していた長次郎 黒楽茶碗 大黒。
こんな茶碗に価値を見出すのは日本だけ。それが良いんです。
大般若長光。
名前の言われは、この太刀の購入価格が銭600貫であったことと大般若経600巻結びつけたものである。現在の価値は3000万円程。現在もバブルは続いている。否、文化が続いている。そう目的は金では無い。金は単なる尺度である。大金を手にしても長船長光が作刀をやめた話など聞かない。彼の目的は、もっと良い刀を作ることにある。
ちょっと金を手にすると、その金でもっと稼ごうとする自称発明家とは違いますね。原発事故に付け込んで、太陽発電商売をしようとする奴のことですけど。
女性宮家創設問題追加記事
羽毛田宮内庁長官の女性宮家創設問題を書いた11月29日の『緊急拡散 女性宮家創設問題』の記事に対して、Baronと言う人による下記のコメントがありました。
旧宮家の復帰という論は極めて危険であり 徹底排除すべきです。
その論の中心にいる竹田某は八木秀次という 国粋カルト思想の超危険人物
とつるんでおり マトモではありません。
今上陛下もこの点については深く懸念されて いるはずです。
不審に思い検索して見たところ、あちらこちらのブログに、全く同じ文章のコメントが有りました。
羽毛田宮内庁長官の要請に対して、震災復旧など国民のためになることは何もしない朝鮮人政権の野田首相がすぐさま反応し、『緊急性の高い課題』と言って有識者会議を設立して検討を進める方針を示しましたが、これに呼応するように、竹田恒泰氏や八木秀次氏を中傷するようなことを拡散している者が現れたと言うことは、女性宮家創設提言が、かなり組織だった日本の皇室破壊工作に基づくものと考えられます。