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韓国が盛んに日本文化の剽窃を行っている。如何に捏造しようと日本の文化は朝鮮半島のそれと根底から違う。人の感性も違うし精神構造も違う。しかし残念な事に、近年日本人なのに日本文化を理解出来ない人間が増えて来た。精神構造も朝鮮人と変わらない人間が増えてきた。
無理も無い。マスメディアや教育現場が乗っ取られていれば、そうなるのかも知れない。
【日本の工芸】
日本画では写実と装飾が混在することが許される。文様の中に細密な花鳥画が混在しても絵として通用する。それは西洋絵画ではあり得無かった。画家は芸術家であるが装飾は職人がやることであった。それが変わったのは日本の絵画からの影響である。クリムトの絵等はその代表であろう。
何も囚われない自由な発想、それは工芸の世界でも同じである。職人や技術者と芸術家の垣根が無いのも日本の文化の特徴である。
左の2つの写真は16世の埋忠明寿作の刀の鍔である。 埋忠明寿は足利将軍家に仕える金工師とされているが、刀も打つので刀工としても著名である。従って彼の立場はその時代の芸術家であり将軍家をとりまく文化人だったようである。
それは彼の残した作品を見れば分かる。自由な発想と共に知性が感じられる。そして何よりも驚くのは、まるでアール・ヌーボーの作品のように感じられることである。否、アール・ヌーボーこそが日本の芸術からヨーロッパへ接木されて花開いた芸術だったのである。それ故、未だに根強い日本人のファンが多いのは当然である。
だが、日本の芸術はそれに留まらない。中央の写真は江戸前期の金工、林又七作の鍔(破扇文散鍔)である。高価な金を象嵌した作品であるが、その象嵌の地は鍛えられ槌跡が残るような朴訥な鉄地であり、金象嵌で描かれるのは破れ朽ち行く扇である。世界にこのような芸術があるのだろうか。
西欧であれ東洋であれ美術品は美を誇るものであり、金を使うなら宝石も使い飾り立て競うものの筈であった。だが日本は違った。滅び行く物に美を感じ、粗末な道具にも気高さを感じた。もうアールヌーボのはるか先を行き追従は許さない。
豪華も質素も派手も朴訥も全て合わせ持つ。それが日本の芸術の特徴であり、それを育む自由こそが日本そのものである。
右の写真は、16世紀末頃の刀の拵えである。派手で奇抜な拵えと質素で朴訥な拵えが、同じ刀掛けに並んでいる光景を想像すると微笑んでしまう。それは下の質素な拵えでも、精一杯のお洒落を感じさせるからである。
この時代を境に、武士の刀の拵えは殿中指と呼ばれる黒一色の黒色蝋塗の拵えばかりになってしまう。それは端整であるが没個性である。これもまた武家社会が儒教による影響を受けたせいかも知れない。
日本の絵画は、中国大陸渡来の技法から描かれるものと、自然発生的に生まれた筆を使った線画とが融合したものと思われる。線画は鳥獣戯画や源氏物語絵巻に代表されるような絵で、大和絵と呼ばれる。大和絵に中国絵画の技法を加えたものが日本画に発展していく。
左の絵は、13世紀に描かれた平治物語絵巻の一巻、三条殿夜討巻の一部である。一部しかお見せ出来ないのは残念であるが、牛車が暴走し車輪が回転する様はどうであろうか、描かれている人物の表情、人馬の躍動感、ダイナミックな臨場感、まるで現代コミックやアニメの一画面のようである。否、人物の表情などは形式化された現代アニメより豊かである。
筆を使用した絵なので、当然中国にも同様な絵があるかも知れない。又山水等の描き方も中国絵画の影響が見られる。それでも発想の自由さは、この絵や鳥獣戯画同様、日本独自と思われる、そして日本のアニメや漫画の原点は、この時代に有ったのでは無いかと思ってしまう程である。
例えば、同じ平治物語絵巻の六波羅行幸巻には、天皇に逃げられた源信頼が慌てふためき天皇を探す様を、同じ画面に別時間を置いた二人の源信頼として描かれている。まさしく漫画である。
前回の日本人のデザイン力の中で『こだわり、気配り、美意識』が日本のデザインの特徴と書いたが、もう一つ『自由』を加えたい。
人気の高い三条殿夜討巻は、残念ながら日本に無くボストン美術館に所蔵されている。それでもアメリカで大事にされ、これによりアメリカ人が日本を知ることになれば良いのかも知れない。只、今は無き日本民族の遺物にだけはしてして欲しく無い。
中央の絵は、江戸寛永期に書かれた彦根屏風図である。江戸時代と言っても此処に描かれた風俗は安土桃山時代と共通する自由さがある。
屏風としては一畳六扇であるが、人物や物の配置が妙であり音楽的と言って良い。まず右から一扇に大人1+子供1、大人2、子供1、大人3と背景山水屏風絵、最後が大人2+子供1+背景の屏風となっている。自然な配置であるが、当然意識して計算尽くされた配置と思われる。
この絵は狩野派の誰かが書いたものとされ、背景の山水画も上手であり手を抜いていない。こだわり、気配り、美意識が如何なく発揮された絵である。そして絵から感じるこの時代の自由さは現代日本を越えている。
狩野派の永徳や探幽に代表される豪放で自由な絵は、この絵の時代を境にしだいにマンネリ化して行く。それは顧客であった武家社会が儒教に縛られ、精神の自由さを失ったのと関係している。
それに反して庶民は、江戸時代に入っても安土桃山時代の自由さを失わなかった。
『自由は日本人の生命である』と17世紀来日したスェーデン人C.P.ツュンベリーは言う。世界を自由に旅する人間が、士農工商の身分差別があり鎖国までしている封建時代の国の民を、そう評するのである。当然行動の自由では無い。法の秩序の中の自由である。それは精神の自由である。
最後の絵は言わずと知れた、葛飾北斎の絵である。明るさ、大胆な構図、何よりも感じる自由さ。印象派の人々が影響されたのも無理は無い。版画の為本物は小さいが、50号程に引き伸ばした写真を見ても違和感は無い。むしろ、より迫力がありダイナミックである。100号に引き伸ばして同じであろう。
現代の日本は、昔の日本よりもっと自由の筈である。だが日展やその他の絵画展の絵を見ても、過去の封建時代の頃の日本より自由さを感じないのは私だけであろうか。
工業製品と言えども、日本人の手に掛かると日本の文化背景が滲み出て来る。しかし、これが日本の文化の一つで有ることを、日本人自体が気が付いていない。
例えば文芸評論家富岡幸一郎氏は、多くの日本人がハヤブサの惑星からの帰還を称える中、『日本の科学技術、コンピュータとか優れていると言うのは確かに有ると思うが、只それが日本の文化というか日本人の器用さとか、能力だけになっちゃうと非常にさびしい物がある』と、まるで理解していない。
【日本人のデザイン力2】
戦前の日本を代表する航空機零戦も『こだわり、気配り、美意識』を感じさせる飛行機である。零戦は海軍の過酷な要求仕様から生まれた。それは、20mm機銃の装備の重武装、双発の爆撃機に匹敵する大航続距離。、最高水準の高速性能、航空母艦に発着艦させる為の短い離着陸距離、そしてどの戦闘機に負けない空戦性能等である。
それを1000馬力のエンジンの飛行機にまとめるためには、機体側で出来ることは機体を空力的に洗練させ軽くするしかない。設計者堀越二郎は、設計にあたって1gまでの重量管理を行う。そこまで徹底しないと目的の重量に出来ないと感じたからである。そして材料の安全基準が形状によっても同じ安全率であったのを馬鹿げているとして見直してしまう。
極限まで追求したのが零戦である。写真の上の零戦と、同時代のアメリカの艦上戦闘機F4Fと比較して見ればよく分かる。零戦の方が圧倒的に美しい。そして性能も零戦の方が上である。
零戦の能力はカタログ性能だけでは分からない。高速でも低速でも昇降舵の効きを同じにする工夫がなされている。今で言えばマンインターフェースへの配慮。つまり人間への気配りである。
堀越二郎にとって零戦は3作目の設計である。1作目の7試戦闘機は失敗である。堀越は反省する。まず美しくなかったと。そして2作目の零戦と同様に重量軽減と空力的洗練を徹底した9試戦闘機戦が初めて空へ飛んだとき、堀越二郎はつぶやく『美しい』と。この9試戦闘機が後の96艦戦であり日本が世界に追いつき、やや追い越したときである。
この時のつぶやきのように、堀越二郎にとっても良い設計は美しい筈であると信念が生まれていた。この9試戦闘機の成功により、日本の航空機エンジニアは一斉に外国を真似ることを止める。それは回答は外に有るのでは無く、自分の頭にあったことに気が付いた時である。
この成功にも関わらず零戦が軽量化を図る余り防弾装備を考えない人命無視の設計だと言う人がいる。1000馬力のエンジンのまま防弾をして重くなれば、敵機より空戦性能は悪くなりそれこそ人命軽視となる。
又、零戦はあまり限界を追求した設計の為、より大馬力のエンジンに換装出来ず失敗だったと言う人もいるが、堀越二郎はそれ等を一知半解の妄言と切り捨てる。零戦と同じ低翼面加重で出発した英国の戦闘機スピットファイヤーが最後は2000馬力のエンジンにしたのをみれば分かる。それは可能であった。
零戦が最後まで1000馬力のエンジンだったのは、生産に阻害となる大改造を軍が許さなかったからである。堀越二郎は英国が最後までスピットファイヤだけで押し通したように、新たな戦闘機の開発を止め最後まで零戦を改良して使うべきと言っている。
零戦の設計が極限を追求した為、副次的にその他の研究を促す結果となった。その一つが金属疲労の研究であり、もう一つがフラッターの研究である。
金属疲労の研究は、堀越が材料の安全基準の見直しをした為から始まった。戦後英国が開発したジェット旅客機コメットが度々空中分解を起こし、英国はその調査の為、機体を水をはったプールに入れ上下の加重を加えることで、機体上部の窓部の金属疲労が空中分解の原因だと知る。日本ではこのような疲労試験等は、戦前既にあらゆる航空機の試験で行っていたのである。
又、零戦は空中分解を2度起こしている。これは強度とフラッター限界速度の関係の算定が甘すぎた為である。零戦が極限の設計をした為表に出てきた問題であった。これにより日本のフラッター研究は世界に一歩リードすることになり、後の航空機の軽量化に一役かっている。限界速度が分からないと機体を頑丈に作るしかないからである。終戦後アメリカの調査団は、海軍航空技術廠の技師松平精氏のフラッター限界速度の推定が10ノット前後の言葉を聞いて驚いている。
堀越二郎がこだわり、厳密を追求したおかげで、日本の航空機研究は世界に先んじたのである。
このように、日本人の航空機に対するデザイン力は、やはり欧米とは違うなにかが隠されている。それは文化的背景であろう。『こだわり、気配り、美意識』はその言葉があること自体、日本人の中に未だにその文化が伝承されていると思われる。
戦後日本はGHQにより航空機の研究や製造が禁止されたが、航空機開発は細々と続けられれている。1960年代三菱は小型自家用機のMU-2を開発する。このMU-2にもこだわりを感じさせるものがある。補助翼を廃止し、全翼に及ぶフラップを設ける。無くなった補助翼の代わりはスポイラーで行う。それでも運動性はライバルより上である。このため高速でありながら、短い離着距離性能を持つ高性能機となった。
その結果 MU-2は世界の小型機の中でもベストセラーの地位を獲得し、2005年には米国航空雑誌の自家用機プロダクトサポートのターボプロップ部門において第1位の評価を得た。
然しながらMU-2の販売は赤字であった。その後継機のMU-300も同様であった。今はMU-2は生産を停止しMU-300は製造権も売られホーカー400の名称の外国機となっている。
これは設計者の罪では無い。アメリカの景気後退や円高不況、そしてアメリカが自国製品を優遇するバイアメリカン法の等の為である。
航空機の開発は金がかかる。その為に、どこの国でも政府がなんらかの援助をしている。処が日本はどうだろう。政治家は、こういった事にまるで理解も興味も無い。幾ら子供手当てで生めよ増やせよと生ませても、子供は自分の才能が発揮出来ない夢も希望も無い時代に生まれて来る事となる。
次は、日本の絵画。
写真説明:
右上:零式艦上戦闘機21型、
右下:米海軍艦上戦闘機F4F
中:陸軍試作戦闘機キ-83
アメリカの飛行機ではない。戦時中の混乱により間に合わなかった試作機である。それでもアメリカ軍の手により飛ばされた機体は762km/hと日本機最高をマークする。やはり美しい。
左上:小型ビジネス機 MU-2
左下:ホンダのビジネスジェット HF120
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