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南朝革命は明治維新以前にも何回か起こっている。
第一回目の南朝革命は、奈良朝から平安朝への政権交代である。
奈良時代末期、百済王(くだらのこにしき)一族は、藤原氏(ユダヤ人シメオン族)の全面協力のもとに奈良(新羅北朝)朝廷を倒して権力を握ると、数次にわたるアテルイの乱などの「古代南北朝の戦い」にも勝ち抜いて、平安(百済南朝)王権の安泰を図った。
だが、百済人たちはもはや故国に帰る望みを絶たれていたため、百済史(朝鮮史)を日本列島史に借史して、百済の祖王(ウガヤ王朝・扶余人)たちが縄文~弥生時代以来の倭王であったとする「歴史捏造」を行った。
これが、のちの南北朝時代(1339年)、北畠親房が戦乱の最中に著したという『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の「桓武条(かんむじょう)」に記された焚書改竄の実態である。すなわち、現在伝えられて「日本の正史」とされている『古事記』も『日本書紀』も全くの偽書だったのである。
続いて、第二回目の南朝革命は、建武元年(1334年)の「建武中興」である。
後醍醐天皇は、百済南朝系の血を引く天皇であるが、彼はそれまで政治の実権を握っていた鎌倉幕府の武士政権を倒し、天皇親政の昔に戻そうとして「建武中興」を断行した。
この建武中興が一旦は成功しながら、結局失敗した理由を探ってみると―
第一に、後醍醐天皇が北条(平氏系)幕府時代の文保2年(1317年)、南北朝迭立(てつりつ)の約(文保の和談)を、幕府の反対を押し切って破約したこと。
第二に、天皇がせっかく建武中興に成功しながら、愛妾阿野廉子に北条一族の大仏遺領(大荘園)を与えた上、戦功ある武士たちの恩賞決定をも廉子にまかせて、実力を持つ武士たちを冷遇したこと。
第三に、中興新政の機構(官僚行政)づくりに失敗したこと。
第四に、足利尊氏と廉子の謀略により、皇太子であった護良(もりなが)親王(建武中興の功労者)を尊氏に引き渡して、のちに暗殺するに至らしめ、さらに皇太子を支持した赤松氏をも冷遇して、廉子が生んだ皇子を次の皇太子にしたこと。
第五に、「中先代の乱」に際して、天皇の反対にも拘らず、足利尊氏が私兵を率いて北条時行を征討したとき、これを追認して尊氏を征夷大将軍に任命したこと。
第六に、尊氏と光厳(こうごん)上皇(北朝系)の同盟を成立させたこと。
第七に、足利尊氏が九州から攻め上がったときに、楠木正成がいったん京都を捨てて奥州の援軍を待って反攻しようと主張したのを、京都に居据わりたい公卿たちの言に加担して退け、結局最大の忠臣である楠木正成らを戦死させたこと。
第八に、光明(こうみょう)天皇にニセの「三種神器」を渡して譲位したこと。
以上の理由が考えられる。
天皇制とは祭政一致の制度であり、武家政治によって祭政分離がなされた以上、制度として次には軍政の分離が行われなければならない。それが逆に、邪馬壱(やまい)国女王・シャーマン卑弥呼らの祭政一致時代に戻るのでは時計の針を逆に回すことになり、歴史の流れに背くものである。
後醍醐天皇の建武中興がきわめて短期間で終わることは避けられない運命だったといえる。
さて、第三回目の南朝革命が「明治維新」である。
江戸時代にはじめて南朝正統論を主張した徳川光國は、南朝の子孫である熊沢天皇を手中に収めていた。南朝正統論といっても、そういうカラクリがなければ、何の得もないのに抵抗を排除してまで主張できないであろう。だが、長い江戸時代を通じて家臣の身分となった熊沢家の者を、再び皇位に戻すことは公的に不可能であった。
一方、幕末、熱心に「佐幕攘夷」を主張した孝明天皇は、足利義満の隠し子・貞成親王の子孫で北朝系の天皇であった。光國の『大日本史』によって南朝革命を志向した吉田松陰らは、偽朝である北朝系の孝明天皇父子を暗殺排除して、長州藩に匿っていた後醍醐天皇の後裔・大室寅之祐を「玉」として皇位につけることを画策した。
これが尊皇攘夷の思想となり、薩長同盟となって実を結んだ。さらに、倒幕から討幕へと進路を切り替えた勤皇討幕派は、慶応2年(1866年)7月、将軍家茂を大阪城中で毒殺し、12月には孝明天皇を愛妾堀河紀子(もとこ)邸において刺殺した。明くる慶応3年7月初旬、幼帝睦仁親王を毒殺すると、睦仁と大室寅之祐を宮中ですり代えて「明治天皇」に仕立てた。
これが明治維新(=南朝革命)の真相である。
(・"・)
『flying girl in russian wood - YouTube』
http://m.youtube.com/watch?v=0ZwbwweF_WQ&feature=youtu.be
南朝革命は明治維新以前にも何回か起こっている。
第一回目の南朝革命は、奈良朝から平安朝への政権交代である。
奈良時代末期、百済王(くだらのこにしき)一族は、藤原氏(ユダヤ人シメオン族)の全面協力のもとに奈良(新羅北朝)朝廷を倒して権力を握ると、数次にわたるアテルイの乱などの「古代南北朝の戦い」にも勝ち抜いて、平安(百済南朝)王権の安泰を図った。
だが、百済人たちはもはや故国に帰る望みを絶たれていたため、百済史(朝鮮史)を日本列島史に借史して、百済の祖王(ウガヤ王朝・扶余人)たちが縄文~弥生時代以来の倭王であったとする「歴史捏造」を行った。
これが、のちの南北朝時代(1339年)、北畠親房が戦乱の最中に著したという『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の「桓武条(かんむじょう)」に記された焚書改竄の実態である。すなわち、現在伝えられて「日本の正史」とされている『古事記』も『日本書紀』も全くの偽書だったのである。
続いて、第二回目の南朝革命は、建武元年(1334年)の「建武中興」である。
後醍醐天皇は、百済南朝系の血を引く天皇であるが、彼はそれまで政治の実権を握っていた鎌倉幕府の武士政権を倒し、天皇親政の昔に戻そうとして「建武中興」を断行した。
この建武中興が一旦は成功しながら、結局失敗した理由を探ってみると―
第一に、後醍醐天皇が北条(平氏系)幕府時代の文保2年(1317年)、南北朝迭立(てつりつ)の約(文保の和談)を、幕府の反対を押し切って破約したこと。
第二に、天皇がせっかく建武中興に成功しながら、愛妾阿野廉子に北条一族の大仏遺領(大荘園)を与えた上、戦功ある武士たちの恩賞決定をも廉子にまかせて、実力を持つ武士たちを冷遇したこと。
第三に、中興新政の機構(官僚行政)づくりに失敗したこと。
第四に、足利尊氏と廉子の謀略により、皇太子であった護良(もりなが)親王(建武中興の功労者)を尊氏に引き渡して、のちに暗殺するに至らしめ、さらに皇太子を支持した赤松氏をも冷遇して、廉子が生んだ皇子を次の皇太子にしたこと。
第五に、「中先代の乱」に際して、天皇の反対にも拘らず、足利尊氏が私兵を率いて北条時行を征討したとき、これを追認して尊氏を征夷大将軍に任命したこと。
第六に、尊氏と光厳(こうごん)上皇(北朝系)の同盟を成立させたこと。
第七に、足利尊氏が九州から攻め上がったときに、楠木正成がいったん京都を捨てて奥州の援軍を待って反攻しようと主張したのを、京都に居据わりたい公卿たちの言に加担して退け、結局最大の忠臣である楠木正成らを戦死させたこと。
第八に、光明(こうみょう)天皇にニセの「三種神器」を渡して譲位したこと。
以上の理由が考えられる。
天皇制とは祭政一致の制度であり、武家政治によって祭政分離がなされた以上、制度として次には軍政の分離が行われなければならない。それが逆に、邪馬壱(やまい)国女王・シャーマン卑弥呼らの祭政一致時代に戻るのでは時計の針を逆に回すことになり、歴史の流れに背くものである。
後醍醐天皇の建武中興がきわめて短期間で終わることは避けられない運命だったといえる。
さて、第三回目の南朝革命が「明治維新」である。
江戸時代にはじめて南朝正統論を主張した徳川光國は、南朝の子孫である熊沢天皇を手中に収めていた。南朝正統論といっても、そういうカラクリがなければ、何の得もないのに抵抗を排除してまで主張できないであろう。だが、長い江戸時代を通じて家臣の身分となった熊沢家の者を、再び皇位に戻すことは公的に不可能であった。
一方、幕末、熱心に「佐幕攘夷」を主張した孝明天皇は、足利義満の隠し子・貞成親王の子孫で北朝系の天皇であった。光國の『大日本史』によって南朝革命を志向した吉田松陰らは、偽朝である北朝系の孝明天皇父子を暗殺排除して、長州藩に匿っていた後醍醐天皇の後裔・大室寅之祐を「玉」として皇位につけることを画策した。
これが尊皇攘夷の思想となり、薩長同盟となって実を結んだ。さらに、倒幕から討幕へと進路を切り替えた勤皇討幕派は、慶応2年(1866年)7月、将軍家茂を大阪城中で毒殺し、12月には孝明天皇を愛妾堀河紀子(もとこ)邸において刺殺した。明くる慶応3年7月初旬、幼帝睦仁親王を毒殺すると、睦仁と大室寅之祐を宮中ですり代えて「明治天皇」に仕立てた。
これが明治維新(=南朝革命)の真相である。
(・"・)
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http://m.youtube.com/watch?v=0ZwbwweF_WQ&feature=youtu.be
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