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崗上虜囚の備忘録

日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください

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無題

本来無一物というのは良く聞くところでして、私はそれなりにそんなものかとも思います。

でもどちらかといいますと、私は、、

神秀の偈の方に愛着が湧きます。

 身是菩提樹   身は是菩提樹
 心如明鏡台   心は明鏡台の如し
 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしき)して
 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ


なぜかと申しますと、人の、本質がそこにあると思うからです。
人間と言うのは、性善なるものでしょうが、それも、真理という因果律の大河の中で再発見するものと思うからです。

慧能の偈は、一足飛びにいきすぎるきらいがあると思っております。

、、と、、未熟者が通ります。

無題

私は、趙州が掃除をしていた処、ある者が『清浄の伽藍に、なんでか塵あるのか』と質問すると、趙州が『また一つ飛んできた』と答えた故事が好きです。

確かに南禅は悟りのみ強調すぎるきらいがあります。実際は頓悟の後が重要です。片目と両目の話は、そのうちします。

神道、仏教、禅

スゥエーデン人ツュンベリーが日本人は自由だと言ったのは精神の自由である。それは日本の古来からの思想や宗教が精神を束縛するものでは無かったからである。

日本の代表的な宗教と言えば神道と仏教である。どちらも排他的では無い。排他的で無いというのは、善悪や優劣を主張しないからである。

例えば、神道では穢れを嫌うのが唯一の主張である。仏教も同様、周利槃特が釈迦に言われた通りに『塵や垢を除け』と唱えながら仲間の履物を拭った故事のように、仏教の教えは伽藍を掃き清める如く、自らを清めるのが教えである。当然、清める事に善悪や優劣の思想は無い。

その神道や仏教の教えの為か、16世紀来日した宣教師フロイスは、日本文化の特徴としてまず清潔を言う。これは現在でも海外の人が日本の特徴として挙げることである。又、キリスト教を広めようとした多くの欧米人は、キリストの教えを知らない異教徒の国の日本の方が、何故キリスト教の国より犯罪率が低いのか疑問が解けず、首をひねるばかりであった。

キリスト教国や儒教国の支那朝鮮を見ると。どうもキリスト教や儒教のように、善悪や優劣を殊更主張する宗教や思想では、人間の道徳心は育たないようである。むしろ善悪や優劣で精神の自由を縛ることによる弊害の方が多いようである。日本の犯罪が低いのは、やはり穢れを嫌う神道や仏教の教えが根付いていたからであろう。

日本では儒教は根付かなかった。十七条憲法にも引用され、多くの日本人が必須科目のように学んだが、儒教は嗜みか一般教養程度としかならなかった。それは日本人の勘である。儒教が観念的になり、精神の自由を奪うと感じたからであろう。

その点仏教は解脱、即ち精神の開放を目的としている。しかしながら日本に入ってきた大乗仏教は、ヒンズー教や伝来経路の世俗的宗教を巻き込みながら伝わって来た為、仏教本来の目的が曖昧になっていた。

そこへ伝来したのが禅宗である。禅の祖、達磨が支那に来たのも仏教本来の目的が解脱すること、即ち悟りを開くことであると正すことであった。単刀直入の禅宗に伝来により、多くの日本人が仏教の本質を知り、片目が開き、又ある者は悟りを開いた。

片目でも開けば、そこは自由な世界である。室町時代に自由奔放の生き方をした佐々木導誉に代表されるバサラ大名などは、禅により開放された武士だったのかも知れない。武士達の動きは庶民にも伝わる。禅はこれ以降の日本のあらゆる文化から切り離すことが出来ないものとなる。

バサラ大名の系譜は戦国大名にも繋がって行く。織田信長はその代表であろう。。佐々木導誉同様、彼も芸術を理解し何よりも自由を愛していた。信長と対談した宣教師フロイスは、信長の宗旨は法華宗であるが若干の見解は禅宗であるとしている。恐らく信長も若くして禅に親しみ片目を開いていたのだろう。それは彼が好んだ『敦盛の舞』の一節『人間五十年・・』を聞けば想像出来る。

戦国の世、人々は何故この残虐で傲慢で危険な男、織田信長に期待したかと言えば、彼の持つ自由に期待したのだろう。期待たがわず、信長から始まった安土桃山時代、それは日本で最も自由な時代であった。その自由と比例して日本は発展した。

ついで日本に伝来した禅宗は、6祖慧能から始まった問答を主する南禅である。南禅では、人とは問答して潰され、とことん行くつくとこまで自問自答して悟りを開くので、リベート合戦で負ける訳が無い。当然、キリスト教だろうと儒教だろうと相手にならない。なにしろ既に一物も捨て去っているので失うものが無いのだから。

日本にキリスト教が根付かなかったのも、儒教が根付かなかったのも禅宗が有ったからかも知れない。神道が今も続いているのも禅宗が有ったからかも知れない。日本は精神の自由が有ったから発展した、日本の自由は、禅等によりとことん自問自答した人間が指導層にいたからである。

処がどうだろう、民主党やそれを支持するマスココミの連中は何であろうか、人権、差別、ジェンダーフリーと言いながら精神を束縛する。戦争と言えば反対としか言わせない、核は考えてもいけないと言う。自分の頭で考えたことが無い連中が、稚拙な考えで日本の自由を奪おうとしているのだ。

馬鹿集団の民主党を出したので、口直しに安土桃山時代流行した『辻が花染め』の小袖をお見せする。左右非対象なんて当たり前。シンメトリーなんて糞食らえ。奇抜と言われようと、何より自由である。もっともその流行は廃れ、次は庶民の『粋(いき)』や『いなせ』の文化になる。
 
 

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本来無一物というのは良く聞くところでして、私はそれなりにそんなものかとも思います。

でもどちらかといいますと、私は、、

神秀の偈の方に愛着が湧きます。

 身是菩提樹   身は是菩提樹
 心如明鏡台   心は明鏡台の如し
 時時勤払拭   時時に勤めて払拭(ふっしき)して
 莫使惹塵埃   塵埃(じんあい)をして惹(ひ)かしむることなかれ


なぜかと申しますと、人の、本質がそこにあると思うからです。
人間と言うのは、性善なるものでしょうが、それも、真理という因果律の大河の中で再発見するものと思うからです。

慧能の偈は、一足飛びにいきすぎるきらいがあると思っております。

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確かに南禅は悟りのみ強調すぎるきらいがあります。実際は頓悟の後が重要です。片目と両目の話は、そのうちします。

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