図4:アジアにおけるY-DNAの分布と長江人の脱出ルート(注5)。(拡大)。
注5:このY-DNA分布は現代のものですが、O1b2は中国周辺にいるが中国本土では山岳部に有るだけで殆どいません。そしてO1b2は世界で初めて水稲栽培を初めた長江人と考えられています。
又長江人は水の民です。日本に稲作が伝わったのは、彼等は常に逃げられるように船に種籾も積んでいたからでしょう。と言っても黒潮分流の対馬海流に乗ったとしても対馬海流は最大で1.3kn、長江河口から長崎まで2週間ぐらいかかります。従ってこれについても検証が必要です。
世界で初めて稲作、それも水稲栽培を始めた長江文明。土器の作成も縄文土器と同じくらい古い長江文明。この長江文明と縄文文明が北九州の地で邂逅したのです。
しかし実は縄文人も長江人も落ちこぼれなのです。縄文人が日本列島に入ってきたのは、ナウマン象等の動物を追ってですが、むしろ後から来る人間との動物争奪戦に敗れて、追われるように日本列島に入って来たのです。従って縄文人のY-DNAは大陸に痕跡すら有りません。そしてナウマン象を取り尽くし、やむなく漁労採取の定住生活に入ったのが縄文時代です。
長江人も同様、大陸の動物争奪戦、即ち中原に鹿を逐う戦いに敗れて、やむなく長江辺りでの漁労採取の定住生活に入ったのです。しかし必要は発明の母、長江人は世界で初めて水稲栽培を発明します。
農耕の始まりが戦争と階級制度を生んだとのトンデモ説が流布されていますが違うと思います。長江人が牧畜民の侵攻により離散したように、中原に鹿を逐う言葉が示しているように、戦争文化は遊牧民の文化です。騎馬民族に至っては戦争が本業になりました。宦官・奴隷が遊牧民の発明だったように、階級制度も遊牧民が生んだ文化です。強い者が上に立たないと成り立たないのです。恐らく黄河文明は遊牧民が畑作民の上に乗る形で出来たのでしょう。
それに対して定住は分業を生み出します。縄文時代に硬玉の翡翠を加工出来たのは、誰の指示を受けずに自由に仕事が出来たプロフェッショナルが居たからです。定住が長い縄文社会も長江社会もプロフェッショナル集団の共同体なのです。その結果、日本以外の国の人ではマネジメント志向の人が多いのに対して、プロフェッショナル志向の人が多いのが日本の特徴です。
日本では強力なリーダが居なくても仕事が出来てしまう事が多々ありますが、それは縄文と長江の文明の性格を引き継いでいるからでしょう。大勢を纏める必要がある場合もありますが、そのとき必要なのは祭祀ぐらいです。正に天皇の役割ですね。
そして九州北部の地で天皇の先祖が出会った長江人の一人が藤原氏の先祖の天児屋根命(アメノコヤネ)と思われます。藤原氏が常に天皇を補佐する形になったのは、天児屋根命が別の文明の知恵を持っていた為と思えば納得できます(注6)。
注6:天児屋根命の子孫のY-DNAはO1b2a1a。藤原鎌足の墓ではないかと言われる阿武山古墳の遺体のY-DNAもO1b2a1aです。天孫族と藤原氏の結びつきはこの時からですが、7300年前に長江人が上野原遺跡の地に居たとは考えられないので、天児屋根命がチャッカリ天岩戸神話に登場するのは、古事記・日本書紀を編纂するときに、藤原氏が無理やり付け加えたものと思われます。
そして長江人から水稲稲作を教わった天孫族は、縄文晩期の寒冷化から一早く繁栄して他の部族を圧する程の勢力となります。瓊瓊杵尊(ニニギの尊)が天照大神から稲穂を持たされたのは、天孫族が他より早く稲作を行っていた証拠です。日本最古の菜畑遺跡等がそれを裏付けています。
否、それ以前に天孫族は一大勢力だったでしょう。理由は信仰です。他の縄文人部族も自然崇拝の信仰のようなものを持っていたと考えられますが、間近に喜界アカホヤ噴火という強烈な体験をした天孫族の自然崇拝は、天孫族の団結を強固にして他を圧したとものと考えられます。従って天孫族の自然崇拝の中で一番重きが置かれているのが天照大御神であるのは、ただの偶然では無いでしょう。
例えば天岩戸神話を日食に結びつける説が有りますが、日食による暗黒時間は最長で7分間です。古代支那等で日食を凶事と結びつける事例や、世界には日食だろうと思われる神話も有りますが、日食により太陽を最高神と崇める信仰が生まれた例はあるでしょうか。やはり喜界アカホヤの超巨大噴火と暗黒の世界の強烈な体験が天照信仰を産んだと思います(注7)。
注7:平安時代(915年)に起きた十和田カルデラの大噴火では、火砕流(毛馬内火砕流)が日本海まで流れ下り、神話ではありませんが八郎太郎と南祖坊の戦いの伝説が生まれました。インパクトのある災害ではこのような物語が生まれるのです。これだって火山に興味が無い人間が聞いたら只の御伽話と思うでしょう。
只この仮説も3番目の難点の、5000年以上も記憶を継承出来るだろうかと思うと自信が有りません。例えば最古のヘブライ語の文字は紀元前1千年程。モーゼの出エジプト記が紀元前1600年頃だとすると、600年程度なら民族の記憶を継承出来そうですが、さて5000年は?と言われると、黙り込むしかありません。
次は邪馬台国と卑弥呼の問題です。天孫族が九州北部で居を構えていたとなると、魏志倭人伝を避けては通れません。
古事記・日本書紀の神代期の天岩戸神話までは天上の神樣同士の話のように見えますが、出雲の国譲りやニニギ尊の天孫降臨の話頃からは、何やら生くさい話になってきます。神が人間界に関与してくるのです。例えば国譲り神話です。
出雲の国は荒神谷遺跡の発見等から弥生初期頃の存在が推定されており、その出雲の国を天照大御神は、国を譲って貰えと周りに指示しているのです。天孫降臨についても天照大御神はニニギ尊に稲穂を持たせたりと細かい指示を出したりと非常に人間くさいです。
また稲作は縄文晩期か弥生初期から始まったものであり、天岩戸神話が7300年前の出来事とするこの仮説の立場としては、天岩戸神話の頃と天孫降臨の頃の天照大御神は別人格という事になります。
従って魏志倭人伝頃に登場する天照大御神は想像上の神では無く人間ではでないでしょうか。天照大御神の代役がいたと考えられます。それに適任なのが卑弥呼です。卑弥呼は日巫女と読めます。日巫女は日神子とも書き、日神は天照大御神のことです。恐らく卑弥呼は天照大御神が憑依した巫女ではないでしょうか。
魏使倭人伝では卑弥呼が女王となっていますが、「その国(邪馬台国)、本はまた男子を以って王と為す。住みて七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑弥呼といふ。鬼道に事へ、よく衆を惑はす。年、すでに長大にして、夫婿なし。男弟有りて国を治むるを佐く」と、一女子を共に立て王と為すと書いているので、別に男の王が居た筈であり、「鬼道に事へ、よく衆を惑はす」と有るのだから、日の神が王以上の権威を持っていたとするなら、日の神が憑依した卑弥呼が邪馬台国の王に指示していたと思われます。
邪馬台国の国名ですが、邪馬台国は邪馬壱国の間違いである説の方が有力なようですが、後漢書には邪馬台国の記述があるようなので、敢えて邪馬台国とします。理由は邪馬台国はヤマト国の当て字か読み間違いとしたいからです。つまり、この度の仮説では南九州から北九州に逃れて来た天孫族が北九州でヤマト王朝を設立した事が前提になっているからです。
また邪馬台国が貰っている筈の金印については、志賀島で発見された「漢委奴国王」の金印こそが邪馬台国が貰った金印でしょう。委の奴の国王と読むから可笑しな話になるのです。
委奴国とは、狗奴国が犬野郎の国の意味と同様、小人野郎の国の意味です。従って委奴の読み方はワヌです。この点については韓国人の方が理解しています。彼等は日本を蔑むとき、日本の事を屡々委奴(ワヌ)と言います。周辺国を蛮族と思っている中国の歴代王朝が良い名称を与える訳がないのです。
それでも北九州に金印を貰える程の倭国最大の国が存在し、それが邪馬台国、即ち後の日本であるヤマト国であることは間違いがないでしょう。
この辺は論争の種になるので避けたい処ですが、日本書紀にも「神武東征が日向を発ち」と書いてあるので、ヤマト王朝が九州に有った説を譲る訳には行きません。
でも「邪馬台国も卑弥呼も古事記・日本書紀に記載が無いではないか」の意見もありますが、これ等はヤマト朝廷にとっては黒歴史、倭国の名や朝貢をしていた事を恥じるようなヤマト朝廷が載せる訳が有りません。
卑弥呼についても「鬼道に事へ、よく衆を惑はす」と書かれている処を見ると、当時から問題視する倭人が居たのでしょう。当然正史である日本書紀に書ける訳がありません。
但し天照大御神が憑依してニニギ尊を天孫降臨させた南九州の地等については、ニニギの尊が「此処は俺達の神聖な土地だ」と言っても丸く収まった訳では無く、エルサレムを巡る紛争と同様、紛争地帯となり、ヤマト朝廷が武力で解決するはめになりました。
これら黒歴史は有ったとしても、日本は先住民の王朝が築いた継続する世界最古の国であり、世界的規模の噴火を元にした神話と、それに伴う7000年前に生まれた世界最古の宗教を頂く国であり、これまた世界最古の縄文文明と長江文明が合体し、その文明を継承している国であると言えるでしょう。