日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください
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>彼らにとっては、日本人の上に立つなら、嘘であろうと、既に効力が無くっていようが関係がない。また中国・韓国にとっても、日本人が贖罪観を持ち、自信を失ってくれることは自国が優位に立てることなので、靖国参拝批判が国是となっているのである。
日本人であれ、外人であれ、個人の平均的な能力は、文化や風習からくる特異性を除けば、さほど変わらないと思われますが、集団となると大きく差が出ていると感じます。
東北の震災による絶望的な破壊に見舞われながらも略奪が起きなかったと、驚きをもって日本の民度を世界に知らしめたことや、日比野庵氏のブログのエントリー(ttp://kotobukibune.at.webry.info/201401/article_12.html)でも、「インフラの性能は民度に比例する」と題して中国を例にして、ハードがいくら良くても、使う民族が馬鹿では直ぐ故障すると、結論付けていますが、このような例でも集団としての民族の差は歴然です。
さて、冒頭引用した部分を要約すると、”支那朝鮮は勝つために相手を貶す”となります。
勿論、競争に勝つということは相手より強いということですが、あくまでも相対的です。ですから、自ずと2つの方法があり、残りは当然、自分自身が相手より強くなることです。
もし、”勝つことが全てである”とするならば、勝つための効率性も考慮すると、初期の段階では自己啓発をするでしょうが、自分自身の能力の限界に近づけば今度は相手を蹴落とそうとするはずです。
結局、連中は勝つための効率性から、相手を蹴落とす傾向が強く、民族全体が出る杭のたたき合いとなり、民度が低くなったのではないかと思われます。
端的に言ってしまえば、勝つこと(だけ)が目的であるということを証明していることに成ります。
翻って、日本においては競争自体はありますが、その相手の蹴落とし、出る杭のたたき合いが、あまり起きていないのではと思います。
ということは、自分自身の能力の限界に近づいても、勝つために”相手を蹴落とさない”ということに成りますが、それでは勝つための効率性を犠牲にしています。
確かに、文化的規範からくるものもありましょうが、”競争する目的”が連中と違うのではないのかと疑われます。
私なりに、こう考えています。
支那朝鮮は、文字通り勝つことそのものが目的と思います。
に対して、日本における競争の目的は、ある組織体に属する過程における、その組織の位置づけを決定するためのプロセスではないのかということです。
2か月ほど前にコメントいたしましたが、”組織において5~6人の小グループがピラミッド状の階層的につながった構造が理想である”とも関係しますが、あるグループ内が上手く補完関係を築けていない時(例えばリーダーは誰だ、企画計画担当は誰だ、etc.)に、競争によって決めようとします。
その過程をうまく乗り切ると、そのグループはうまく補完関係が築けたことに成りますが、そういう状態だと今度はそのグループ内の個々人に対する信頼が重要になってきます。当然役割分担することに成りますから、グループ内の個人は必ずそのグループ内の誰かを頼らなければならない以上、信頼がなかればなりません。と同時に、頼られる側も居場所とやりがいが満たされます。
つまり、日本においての競争の目的は、”組織内の位置づけの為”である場合が高いのではないかと考えられます。
なので、民度が高いのではないかと思います。
日本人は仲間意識が高いがゆえ、組織内の位置づけを求め、その過程で競争がある。
ですから、日本国内においては仲間であることが前提での競争であるべきですが、国際舞台では支那朝鮮のように、相手を蹴落とすことも手段に入れなければなりません。
そして日本人でありながら、敗戦利得者をはじめ反日勢力に加担している連中は、日本人でありながら”相手を蹴落とす競争”をせざるを得ない状況を招いている、彼らこそ許されない戦犯なのです。
真に「有り難いご意見」です^^
戦後体制の呪縛から解放。
すっきり致しました。
>日本人は仲間意識が高いがゆえ、組織内の位置づけを求め、その過程で競争がある。
「智に働けば角が立つ情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」と殆どの日本人は我慢して生きています。仲間意識と言うより他へ配慮でしょうか。でもこれが公の配慮、即ち民度の高さだと思います。
日本方式は、欧米のように明文化されたされたものではありませんので、余計気苦労が多く、その分個人の自覚が必要となります。所謂空気を読むですが、空気を読むこと自体、民度向上に磨きをかけているのでしょう。
なんと言っても数千年以上、同じ民族が狭い列島にいたのですから、空気も読めるようになったのでしょう。その点、支那人・朝鮮人が空気を読めないのは、彼らが歴史を持っていないからと思います。
彼らの歴史は、食うか食われるかの弱肉強食の世界、継続した歴史にはなりません。歴史は断絶され、どんどん民度が下がってきます。彼らと接触が長い日本人も影響されて民度が落ちてきます。
>そして日本人でありながら、敗戦利得者をはじめ反日勢力に加担している連中は、日本人でありながら”相手を蹴落とす競争”をせざるを得ない状況を招いている、彼らこそ許されない戦犯なのです。
なので、敗戦利得者って、支那人・朝鮮人に似てますよね。
民度の低い弊ブログを評価して頂き有難うございます。
日本人は余り他人を批判しません(だから民度が高い)。そのため、敗戦利得者のような狡からい人間が幅をきかせてしまいます。なので民度の低い私のような者が、言わないと駄目だと思い記事を書いている次第です
いわゆるA級戦犯についてですが、これは平和に対する罪で裁かれたのですが、ドイツにもこれと同じ罪で裁かれ有期刑に服した人が何人もいます。
日本では重光葵がA級戦犯として起訴され、禁固7年の有罪判決を受けています。
それでも2度首相に選出されそうになり、昭和29年には外務大臣になってニューヨークの国連で演説をしています。
ニュールンベルグ裁判のA級戦犯で有期刑を受けた人で、その後ドイツで大臣になったような人はいるのでしょうか?
日本のA級戦犯はドイツとは違うと思います。
>>彼らにとっては、日本人の上に立つなら、嘘であろうと、既に効力が無くっていようが関係がない。また中国・韓国にとっても、日本人が贖罪観を持ち、自信を失ってくれることは自国が優位に立てることなので、靖国参拝批判が国是となっているのである。
中韓人たちの文化に、英雄という評価を受けていない他人を、祀り、感謝を捧げるメンタリティなど端から無いのではないでしょうか?
何故なら、中世から脱し切れていない彼らの価値観が、氏族のみの繁栄に措かれているからで、所謂「同姓を、娶らず、異姓を養わず」という伝統的な考えに由来しているからです。
ダカラこそ、国を挙げての「戦死者の慰霊祭」等、存在しないワケで、「公の為に命を捧げる」事すら社会で顕彰されるケースは希ではないのか。
特に、自力で独立を勝ち取った訳ではなく、日本の敗戦~米国の極東進出の橋頭堡としての半島国家が必要、という都合から、棚ボタ式に独立国家を与えられて出来た韓国は、民族そのものが纏まっていない上国内差別が酷く、建国そのものが社会の要請に従ったにモノではなかったが故に、国家意識、公意識の形成には至らず、その点が真に致命的だと云えましょう。
自国の治安系公務員の殉職者の1周忌に、ゴルフを理由に欠席する国会議員が大半という有様は、その典型だと言えましょう。
それが故に、日本の死者儀礼=靖国参拝が国内問題である事や、他国の歴史観を尊重する処か、自国歴史を含む、歴史そのものを冒涜しても、何ら異常とは思わない感性や常識しか持てないのです。
日本国内にも、その様な風潮に同調する輩が大勢いるようで、例えば、舛添要一などは、国旗、国歌に対しても非礼の限りを尽くす言動を示している。
同じようなメンタリティしかもっていない、マスゴミが彼を持ち上げるのは、むしろ当然かもしれませんね。
>日本のA級戦犯はドイツとは違うと思います。
ドイツは蜥蜴の尻尾切りをしたのです。うまく立ち回ったように見えますが、問題を先送り、いや大きくしただけだと思います。ネチスを評価する人間や、ホロコーストを否定する人間は犯罪者と見なすなどが、それを示しています。
殆どの国は、侵略者の脅威からまとまることで成り立ったような国ばかりです。処が日本の場合は自然発生的な国です。
尤も日本が国家として成り立ったのは、他国(支那)の脅威を意識したからですが、自然発生的な国のため、国民が国を意識することに違和感を持っています。
その為、外圧に国民の抵抗感がなく、影響されやすくなっています。でも外圧が無くなれば、また道義心の高い国民に戻るでしょう。
その為には、経済と軍事の自立を図ること、不良外国人を追い出すこと、特に特亜三国とは断絶を図るべきでしょう。
上に日本に不要な外国人が居ますので、削除します。
タイトルは、都知事選候補者の細川護煕氏に関して入ってきた情報に関するものです。
「水前寺公園」とは熊本市内にあるすばらしい庭園で、毎年八月第一週に無料で薪能が見られる能楽堂があります。
私は当時中学生だった子供を連れて一泊泊まりでわざわざ見せにいったほど「貴重な存在」だと思っています。
そのほか、見事な五葉松ほか、すばらしい景観・景物にあふれ、熊本城と並び県民市民のみならず、九州の文化遺産として誇りに思うものです。
ところが、熊本在住の人に言わせると、細川護煕知事時代に水前寺公園の多くの部分が失われたそうで、「あのバカ殿」と言ってはばからりませんでした。
「反原発」のほうは、ニュースで報道されているようですが、「安倍首相は原発を理由にオリンピック開催を返上すると言っていたら、海外から高く評価されていたことだろう」という趣旨のことを述べたようです。
・・・「水前寺公園」のほうは改修前の姿を知らない私には、「何か事情があったんだろうか・・・」とワンクッションを置いてしまうところもあったのですが、今日目にしたこの一言は「・・・あ、こりゃダメだ、やっぱりバカ殿だ」と言わざるを得ないひどさです。
舛添に対する自民党の煮え切らない態度も見ていてイライラしますし、ここは「正気の人」である田母神俊雄氏に都民の気持ちが集まってほしいと強く念願します。
>「反原発」のほうは、ニュースで報道されているようですが、「安倍首相は原発を理由にオリンピック開催を返上すると言っていたら、海外から高く評価されていたことだろう」という趣旨のことを述べたようです。
と言うことは、「危険だからオリンピックは反対する」と言う意味ですよね。ならば堂々と「東京は危険だ。都民危険に曝されている。オリンピックも反対」だと言えば良いのですが、「オリンピックの一部は、東北で」とか、訳の分からないことを言っています。つまり馬鹿なのでしょう。第二の近衛文麿か、ルーピ細川です。
>舛添に対する自民党の煮え切らない態度も見ていてイライラしますし、ここは「正気の人」である田母神俊雄氏に都民の気持ちが集まってほしいと強く念願します。
頑張れ日本!全国行動委員会のおかげで当選した議員の中にも、田母神氏推薦に難色を示している議員がいるとか。やっぱりお灸が必要だと思えるようになりました。
1月23日号を買って読みました。
「還俗陶芸家・脱原発元総理」連合対「絶倫政治学者」というタイトルで、9つの主題で、細川、小泉、舛添の三者が叩かれています。
高山正之氏「変見自在」がある『新潮』は、『文春』と違い相変わらず気が向けば買って読みますが、実質的に田母神さんを支援してくれているのだろうかなどと考えてしまいます。
>虜囚さんおはようございます。
>>日本の場合は自然発生的な国です。
吽、それも色んな民族が、海流に乗って流れ着き、獲物を追い陸橋を渡り、或いは、戦火を逃れて移り住んでいたのでしょう。
生業が異なれば、争いの種は大分減りますが、自然災害は共有しなくてはならず、援け合う機会が生まれ、其れが交流・混交状態を産んで行ったのでしょう。
>>尤も日本が国家として成り立ったのは、他国(支那)の脅威を意識したからですが、自然発生的な国のため、国民が国を意識することに違和感を持っています。
是も同意します。
時代を経る毎に、世界に穀物栽培が広がり、多くの湿地帯や原野が開墾されて人口が増えました。
大陸からの移民も相当数増加しましたが、既に人口/食糧供給比率が飽和状態になって居た大陸では、生存の脅威感から、戦争が日常化して居た。
其処からの移民は当然、列島で暮らす「自然の脅威から生き残る為の人間の共同体」を基本とする和を以て集団と成すモノが持つモラルとは異なる、支配・被支配と云う観念を持ちこむ事となった。
仰る通り、列島民にとって、国とは外来の観念に他ならず、当初は、武力による支配、強制、収奪するシステムと云う意味でしかなかったから反発もあったでしょう。
然し、その様な外来の観念も、年を経る毎に巧みに消化して、日本化するのが、亦、その本来の意味に辿りつき、本来あるべき姿として顕現させるのが、この列島に3万年以上も暮らしてきた民の文化の底力と云うモノです。
国家は、民の上に在るが、民の為に在るから、主が「おほきみ」=スメラミコトであり、民がそのスメラミコトが「おほかみ」に祈念して護るべき「おほみたから」なのです。
この司祭王は権威の王として君臨しつつも、統治を世情に合わせて権力の王と力を併せて行ってきました。
権力の王は時代に依って交代したが、権威の王は万世一系の血統に、「皇霊の依り代」として現れ引き継がれるという考えなのです。
世界で最も安定した平和維持に適したシステムこそ、日本社会で有ろうと思いますが、システムは本質を喪わない様に現状に対応して変化してこそ、正常に働き、自体の維持も可能となるのです。
その為には、国民の心に日本的な国家観を復活せしめなければ、本質を見失ってしまいます。
国は家庭の延長、国土は我が父母の血肉である、そして、その上に日本人の心が花開く社会を築き、次世代に伝えなければならないのです。
篠の目さん、ナポレオン・ソロさん、すみません、返事は後でします。
若者二人が枡添のポスターを貼っていました。どうも枡添を推しているのは公明党のようで。なので恐らく学会員なのでしょう。自民党も公明党(朝鮮系)に乗っ取られているようです。そんな中、石原氏などが応援演説で「外国人参政権に賛成する政治家は駄目だ」とはっきり言うようになり、聴衆がそれに呼応している光景を見ると、潮流を感じます。
日本は自然発生的な国ですが、それは日本民族が自然に会得した知恵で出来た国と言えることです。人間は未だ猿と同様、集団に属する事とボスを必要とします。猿山ではボスの座を争って騒動が起きますが、人間も同じです。大統領や国家主席と名前こそ異なりますが、ボスの座を争っているのは、人間も猿と同じだということです。ボスの座を争って血を見ることは無くなりましたが、代わりは多数派工作、買収や鳴り物入りの宣伝活動です。結局は手練手管で大衆を騙すことです。なのでボスを選挙で選ぶ民主主義が進歩したシステムとは言えないでしょう。共産主義に被れた人は、日本に天皇がいることを封建時代の名残、即ち遅れていると見ますが、共産主義こそ人類の歴史に逆行した猿山の世界です。その点、一億を越す人間集団が平穏に維持できるような、天皇を中心にしたシステムを日本人が選んだのは、日本人は気が付いていませんが日本民族の知恵によるもと思います。日本民族の知恵とは言え、天皇を中心にしたシステムは反日国家や反日集団の工作が多い昨今、国民が意識して維持しなければ潰れてしまう可能性が大です。したがって、必要に応じて君が代を歌い、国旗を掲げることは必要なことと思います。
それでも天皇を否定する人達、否、お猿さん達には、「じゃあどうするの?」と聞くことですね。
「社会や国家が人間にとってどの様に有るべきか?」を、人間の基本に還って考えてみますと、皆究極として、平和で安寧な暮らしがしたいワケです。 殊に女性は、安心して子供を産み育てる事が幸せに一番近いという考えがベース化している様に思います。
問題は、その安寧を齎す規模や範囲と云う事でしょう。
譬え、社会の最小単位である[夫婦」、「親子」レベルに安寧化がとどまった場合でも、人間には、「安らげる場所」さえ有れば、幸せを体感できるでしょう。
処が、その範囲が小さく狭ければ、他の集団の安寧化の意志と手段で競合・対立が生まれ、安寧は不安定なものになります。
其処でその範囲を広げて、多くの人々の安寧を共に護ろうと、郷がf出来、村になり、町になり、県になって、やがて国になるワケです。
此の手法の究極が世界政府が支配する世界国家であり、其れを推進するのがグローバリズムだと思います。
然し、国家間での衝突も始まりは、安寧=平和や充足した生活を護ろうと云うものだったが、何時しか、利己的な目的=拠り富んだ生活がしたい、と云う欧州的な物質的欲望を原動力にした侵略主義が現れて、集団化する事自体、安寧を守る事が主目的では無くなって、亦、彼等は徒に神の名前を騙って利己的な殺人や差別・弾圧を正当化してきました。
文明と云う光は、彼等白人の上に世界史上最も遅れて遣って来たと言えましょう。 多くの有色人種を獣の様に殺害して来た彼等が、今になって、人道や理性を語る事こそ、最も偽善に満ちた話で有ろうと思います。
白人が文明化する迄、騎馬民族や海洋民を例外として、多くの人類にとって世界と云う範囲は、「目に見える範囲=地平線、水平線、亦は、山際迄」に過ぎなかった。
然し、白人文明は、「世界」が定義する範囲を広げ、人々をより利己的にしました。 力の無いモノ、弱きものを虐げ、その報酬として、とびっきりの安寧を手に入れる事が、文明力だと勘違いし始めた様ですが、「強きものが弱きものを援けてこそ平和が在り、安寧が訪れる」と言う、神の教えの欠片も無き世界の考えだと言う他はない。
彼等が、キリスト教以前に信じていた神のレベルや正体が判る話です。 彼等はキリスト教に密かに、自分達の神を忍ばせ、変質を齎して、自分達の野蛮さを正当化して来たのです。
彼等はそうして築き上げた世界に疑義が生じない様に、自分達とは異なる文明に対するに、徹底的な否定をしてきました。
然し、情報化が世界で高度に且急速に発達した結果、文明比較が容易にできるようになりました。
すると、世界一文明が進んでいるという自負心を持った白人文明の構成者に、「自身の文明を律して来た宗教が何故、互いに対立するのか?」更には、「何故に戦争や人殺しが減らないのか?」という日常の単純な問題に、疑問が回帰するに至るようになりました。
之は、白人文明の基となったと言われるメソポタミア文明では、都市神を奉戴していましたが、「良い神」「ダメな神」と云う、功利的な取捨選択が行われて居た事を思い出させます。
欧米では、是までのキリスト教に疑義を呈し始めて、中世の様に、聖書回帰運動、若しくは原理運動に走ったり、キリスト教以外の信仰に走る人々が増えているソウです。
翻って日本を考えますと、古来より神道の「自然の中に、神の意が遍満している」と云う教えが、生活や人々の常識として、沁み込んでいますが、之を宗教と感じる日本人は少なく、寧ろ、感じている方が先行している様に思います。
すると自ずと、神域とされる処への禁忌を犯す事を畏れますが、其れは、神の怒り=自然災害が及ぶ時、犠牲が我が身だけでは無い事で、「自身の身勝手な行動は、抑制するべきだ」と云う潜在意識に結っているのです。
そして、人が皆平等であるという考えは、自然災害の猛威の前には、人間間の小さな利害の衝突や差異は、全く関係ないと言う一点で、気付けます。
驚異の自然=神の為し事の前に、人は只管「生き延びる」為に、力を併せ、お互いに扶け合わねばならないという相互扶助の結論すら導きだせるのです。
結局、日本列島に暮らすモノは、「他に行く処が限定されている人々」なのです。 ダカラ、噴火に埋まっても、地震で家に押しつぶされても、津波で全てを喪っても、生き残った人は、其処で亦暮らそうとするのでしょう。
然し、世界は、次第に此の日本に関心を寄せる人が増えて来ている様です。
神道が規定する事象に、ケガレは有りますが、潔斎する事で禊払う事が出来るとも考えられているのですから、現代日本に残っている差別は、実は、士農工商の身分を公的に定めた江戸時代以降に生まれたものです。 その身分制度にしても、社会を安定させる為に行った刀狩と意図を同じくする単なる職掌による区別でした。
江戸期に、都市の発展によって、農工商業以外の職業の必要が増大したからという成分が在ったとはいえ、エタ・ヒニンといった「社会差別」をワザワザ造り出したのは、仏教の殺生禁忌の現実を無視した敷衍に有ると看て居ます。
いつの時代にも、自分を故なく他よりも一段上にしたいと言う欲望を持つモノが居るのでしょう。
そう云う誤った付加を容れても、日本は世界でトップクラスの平等な国ですから、この先、日本研究者は増えて行くものと思います。
>江戸期に、都市の発展によって、農工商業以外の職業の必要が増大したからという成分が在ったとはいえ、エタ・ヒニンといった「社会差別」をワザワザ造り出したのは、仏教の殺生禁忌の現実を無視した敷衍に有ると看て居ます。
日本人は民族同士の葛藤を経験していません。その為か、自分達の平等意識と階級制度に矛盾を感じても積極的に解決しようとする気概が無いように見えます。
それが封建制度化でのしわ寄せがエタ・ヒニン階級になったのでしょう。民主主義の概念も無かったし、階級制度に手をつければ、秩序が崩壊し大混乱になると思ったからです。
それが明治の開国により、武士階級が進んで特権階級を捨てたのは、西欧というお手本があり、元々日本人が持っていた平等意識によるものと思います。結果、日本は西欧以上の平等国家となりました。
西欧人は矛盾を積極的に解決しようとしますが、必ずしも結果を伴っていません。解決策が過激な思想を伴うからです。しかも完璧な解決策でもない限り、日本人のように我慢して従う人間がいません。
江戸時代の治安の良さは、日本人の我慢強さかも知れません。その我慢強さは、他人を気遣う文化が有るからですが、それが熟成されたのが孤島であることと、長い歴史によるものと思います。
>>階級制度に手をつければ、秩序が崩壊し大混乱になると思ったからです。
そも日本の階級制度は、徳川氏の統一で、応仁の乱以降約170年も続いた乱世に終止符を打ったが、その体制を守るには、封建領主を服従させる以外に、社会に秩序を打ち建て、利己的に不逞を働く者どもから良民を護る事が為政者に求められたと考えます。 則ち「民を生産者(農業)、生産補助者(工業)、流通者(商業)に分ける事で、農本主義態勢を確立、そのシステムの秩序管理者として、武士が存在する」としたものです。 是なら、生産者や生産補助者が、徒に武器を持って互いに戦う必要がなく生産活動に専念できると考えたのでしょう。 その為に、検地を行って、その広さ、地味などの要素から見込生産高を記帳する事で確定させ、潜在武力を弱める為に刀狩を行いました。 勿論、強制力を伴わねばこれ等の事は現実化できませんが。
「武士がシステムの頂点に立って、搾取を行い、従順を強制し、従わぬものを弾圧した。」というのは、西洋史への見做しでしかなく、就中、マルクス史観そのものである事を知るべきです。確かに年貢は徴収しましたが、税金なしで国家を265年も運営できた例は、聞いた事が有りません。 唯、江戸期は世界的に小寒冷期にあり、定期的に旱魃や冷夏が訪れた結果、265年間に人口が殆ど増えていません。 是が農本主義、江戸幕藩体制の崩壊の大きな原因でもあります。
然し乍、日本の歴史上で、農民の暴動を伴った「反乱」は、その動機や数が限られています。 中には、大塩平八郎の様に、秩序を守らせる側にある武士階級が庶民の味方をして、権力に不正を告発した例すらあります。
大塩の行為は、「武士の本分」を真摯に考えた末の事でしょう。 つまりは、「秩序は誰のために守られるべきか?」と言う事です。 権力側に、真に糺すべき成分が存在しているのなら、家を擲ち、身を挺し、名を捨ても、糺すべきと判断したから敵わぬと判っていても兵を挙げたのです。
農本主義の国の本体とは、農民でなくてはなりませんが、その認識は、日本古来からのもので、仁徳帝の遺した御意が「おほみたから=民」である事、就中、「生産する民=漁、農民」である事は明らかです。
民主主義という概念は確かに日本では育っていませんが、仰る様に、平等という意識は、日本人にとって根源的なものに近い。 それはそも島国日本には、ある時代を境に、外来支配勢力が渡来せず、従い、武士も元は農民であった事を潜在的に知っている環境に在ったが故と考えます。
>彼らにとっては、日本人の上に立つなら、嘘であろうと、既に効力が無くっていようが関係がない。また中国・韓国にとっても、日本人が贖罪観を持ち、自信を失ってくれることは自国が優位に立てることなので、靖国参拝批判が国是となっているのである。
日本人であれ、外人であれ、個人の平均的な能力は、文化や風習からくる特異性を除けば、さほど変わらないと思われますが、集団となると大きく差が出ていると感じます。
東北の震災による絶望的な破壊に見舞われながらも略奪が起きなかったと、驚きをもって日本の民度を世界に知らしめたことや、日比野庵氏のブログのエントリー(ttp://kotobukibune.at.webry.info/201401/article_12.html)でも、「インフラの性能は民度に比例する」と題して中国を例にして、ハードがいくら良くても、使う民族が馬鹿では直ぐ故障すると、結論付けていますが、このような例でも集団としての民族の差は歴然です。
さて、冒頭引用した部分を要約すると、”支那朝鮮は勝つために相手を貶す”となります。
勿論、競争に勝つということは相手より強いということですが、あくまでも相対的です。ですから、自ずと2つの方法があり、残りは当然、自分自身が相手より強くなることです。
もし、”勝つことが全てである”とするならば、勝つための効率性も考慮すると、初期の段階では自己啓発をするでしょうが、自分自身の能力の限界に近づけば今度は相手を蹴落とそうとするはずです。
結局、連中は勝つための効率性から、相手を蹴落とす傾向が強く、民族全体が出る杭のたたき合いとなり、民度が低くなったのではないかと思われます。
端的に言ってしまえば、勝つこと(だけ)が目的であるということを証明していることに成ります。
翻って、日本においては競争自体はありますが、その相手の蹴落とし、出る杭のたたき合いが、あまり起きていないのではと思います。
ということは、自分自身の能力の限界に近づいても、勝つために”相手を蹴落とさない”ということに成りますが、それでは勝つための効率性を犠牲にしています。
確かに、文化的規範からくるものもありましょうが、”競争する目的”が連中と違うのではないのかと疑われます。
私なりに、こう考えています。
支那朝鮮は、文字通り勝つことそのものが目的と思います。
に対して、日本における競争の目的は、ある組織体に属する過程における、その組織の位置づけを決定するためのプロセスではないのかということです。
2か月ほど前にコメントいたしましたが、”組織において5~6人の小グループがピラミッド状の階層的につながった構造が理想である”とも関係しますが、あるグループ内が上手く補完関係を築けていない時(例えばリーダーは誰だ、企画計画担当は誰だ、etc.)に、競争によって決めようとします。
その過程をうまく乗り切ると、そのグループはうまく補完関係が築けたことに成りますが、そういう状態だと今度はそのグループ内の個々人に対する信頼が重要になってきます。当然役割分担することに成りますから、グループ内の個人は必ずそのグループ内の誰かを頼らなければならない以上、信頼がなかればなりません。と同時に、頼られる側も居場所とやりがいが満たされます。
つまり、日本においての競争の目的は、”組織内の位置づけの為”である場合が高いのではないかと考えられます。
なので、民度が高いのではないかと思います。
日本人は仲間意識が高いがゆえ、組織内の位置づけを求め、その過程で競争がある。
ですから、日本国内においては仲間であることが前提での競争であるべきですが、国際舞台では支那朝鮮のように、相手を蹴落とすことも手段に入れなければなりません。
そして日本人でありながら、敗戦利得者をはじめ反日勢力に加担している連中は、日本人でありながら”相手を蹴落とす競争”をせざるを得ない状況を招いている、彼らこそ許されない戦犯なのです。
真に「有り難いご意見」です^^
戦後体制の呪縛から解放。
すっきり致しました。
>日本人は仲間意識が高いがゆえ、組織内の位置づけを求め、その過程で競争がある。
「智に働けば角が立つ情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい 」と殆どの日本人は我慢して生きています。仲間意識と言うより他へ配慮でしょうか。でもこれが公の配慮、即ち民度の高さだと思います。
日本方式は、欧米のように明文化されたされたものではありませんので、余計気苦労が多く、その分個人の自覚が必要となります。所謂空気を読むですが、空気を読むこと自体、民度向上に磨きをかけているのでしょう。
なんと言っても数千年以上、同じ民族が狭い列島にいたのですから、空気も読めるようになったのでしょう。その点、支那人・朝鮮人が空気を読めないのは、彼らが歴史を持っていないからと思います。
彼らの歴史は、食うか食われるかの弱肉強食の世界、継続した歴史にはなりません。歴史は断絶され、どんどん民度が下がってきます。彼らと接触が長い日本人も影響されて民度が落ちてきます。
>そして日本人でありながら、敗戦利得者をはじめ反日勢力に加担している連中は、日本人でありながら”相手を蹴落とす競争”をせざるを得ない状況を招いている、彼らこそ許されない戦犯なのです。
なので、敗戦利得者って、支那人・朝鮮人に似てますよね。
民度の低い弊ブログを評価して頂き有難うございます。
日本人は余り他人を批判しません(だから民度が高い)。そのため、敗戦利得者のような狡からい人間が幅をきかせてしまいます。なので民度の低い私のような者が、言わないと駄目だと思い記事を書いている次第です
いわゆるA級戦犯についてですが、これは平和に対する罪で裁かれたのですが、ドイツにもこれと同じ罪で裁かれ有期刑に服した人が何人もいます。
日本では重光葵がA級戦犯として起訴され、禁固7年の有罪判決を受けています。
それでも2度首相に選出されそうになり、昭和29年には外務大臣になってニューヨークの国連で演説をしています。
ニュールンベルグ裁判のA級戦犯で有期刑を受けた人で、その後ドイツで大臣になったような人はいるのでしょうか?
日本のA級戦犯はドイツとは違うと思います。
>>彼らにとっては、日本人の上に立つなら、嘘であろうと、既に効力が無くっていようが関係がない。また中国・韓国にとっても、日本人が贖罪観を持ち、自信を失ってくれることは自国が優位に立てることなので、靖国参拝批判が国是となっているのである。
中韓人たちの文化に、英雄という評価を受けていない他人を、祀り、感謝を捧げるメンタリティなど端から無いのではないでしょうか?
何故なら、中世から脱し切れていない彼らの価値観が、氏族のみの繁栄に措かれているからで、所謂「同姓を、娶らず、異姓を養わず」という伝統的な考えに由来しているからです。
ダカラこそ、国を挙げての「戦死者の慰霊祭」等、存在しないワケで、「公の為に命を捧げる」事すら社会で顕彰されるケースは希ではないのか。
特に、自力で独立を勝ち取った訳ではなく、日本の敗戦~米国の極東進出の橋頭堡としての半島国家が必要、という都合から、棚ボタ式に独立国家を与えられて出来た韓国は、民族そのものが纏まっていない上国内差別が酷く、建国そのものが社会の要請に従ったにモノではなかったが故に、国家意識、公意識の形成には至らず、その点が真に致命的だと云えましょう。
自国の治安系公務員の殉職者の1周忌に、ゴルフを理由に欠席する国会議員が大半という有様は、その典型だと言えましょう。
それが故に、日本の死者儀礼=靖国参拝が国内問題である事や、他国の歴史観を尊重する処か、自国歴史を含む、歴史そのものを冒涜しても、何ら異常とは思わない感性や常識しか持てないのです。
日本国内にも、その様な風潮に同調する輩が大勢いるようで、例えば、舛添要一などは、国旗、国歌に対しても非礼の限りを尽くす言動を示している。
同じようなメンタリティしかもっていない、マスゴミが彼を持ち上げるのは、むしろ当然かもしれませんね。
>日本のA級戦犯はドイツとは違うと思います。
ドイツは蜥蜴の尻尾切りをしたのです。うまく立ち回ったように見えますが、問題を先送り、いや大きくしただけだと思います。ネチスを評価する人間や、ホロコーストを否定する人間は犯罪者と見なすなどが、それを示しています。
殆どの国は、侵略者の脅威からまとまることで成り立ったような国ばかりです。処が日本の場合は自然発生的な国です。
尤も日本が国家として成り立ったのは、他国(支那)の脅威を意識したからですが、自然発生的な国のため、国民が国を意識することに違和感を持っています。
その為、外圧に国民の抵抗感がなく、影響されやすくなっています。でも外圧が無くなれば、また道義心の高い国民に戻るでしょう。
その為には、経済と軍事の自立を図ること、不良外国人を追い出すこと、特に特亜三国とは断絶を図るべきでしょう。
上に日本に不要な外国人が居ますので、削除します。
タイトルは、都知事選候補者の細川護煕氏に関して入ってきた情報に関するものです。
「水前寺公園」とは熊本市内にあるすばらしい庭園で、毎年八月第一週に無料で薪能が見られる能楽堂があります。
私は当時中学生だった子供を連れて一泊泊まりでわざわざ見せにいったほど「貴重な存在」だと思っています。
そのほか、見事な五葉松ほか、すばらしい景観・景物にあふれ、熊本城と並び県民市民のみならず、九州の文化遺産として誇りに思うものです。
ところが、熊本在住の人に言わせると、細川護煕知事時代に水前寺公園の多くの部分が失われたそうで、「あのバカ殿」と言ってはばからりませんでした。
「反原発」のほうは、ニュースで報道されているようですが、「安倍首相は原発を理由にオリンピック開催を返上すると言っていたら、海外から高く評価されていたことだろう」という趣旨のことを述べたようです。
・・・「水前寺公園」のほうは改修前の姿を知らない私には、「何か事情があったんだろうか・・・」とワンクッションを置いてしまうところもあったのですが、今日目にしたこの一言は「・・・あ、こりゃダメだ、やっぱりバカ殿だ」と言わざるを得ないひどさです。
舛添に対する自民党の煮え切らない態度も見ていてイライラしますし、ここは「正気の人」である田母神俊雄氏に都民の気持ちが集まってほしいと強く念願します。
>「反原発」のほうは、ニュースで報道されているようですが、「安倍首相は原発を理由にオリンピック開催を返上すると言っていたら、海外から高く評価されていたことだろう」という趣旨のことを述べたようです。
と言うことは、「危険だからオリンピックは反対する」と言う意味ですよね。ならば堂々と「東京は危険だ。都民危険に曝されている。オリンピックも反対」だと言えば良いのですが、「オリンピックの一部は、東北で」とか、訳の分からないことを言っています。つまり馬鹿なのでしょう。第二の近衛文麿か、ルーピ細川です。
>舛添に対する自民党の煮え切らない態度も見ていてイライラしますし、ここは「正気の人」である田母神俊雄氏に都民の気持ちが集まってほしいと強く念願します。
頑張れ日本!全国行動委員会のおかげで当選した議員の中にも、田母神氏推薦に難色を示している議員がいるとか。やっぱりお灸が必要だと思えるようになりました。
1月23日号を買って読みました。
「還俗陶芸家・脱原発元総理」連合対「絶倫政治学者」というタイトルで、9つの主題で、細川、小泉、舛添の三者が叩かれています。
高山正之氏「変見自在」がある『新潮』は、『文春』と違い相変わらず気が向けば買って読みますが、実質的に田母神さんを支援してくれているのだろうかなどと考えてしまいます。
>虜囚さんおはようございます。
>>日本の場合は自然発生的な国です。
吽、それも色んな民族が、海流に乗って流れ着き、獲物を追い陸橋を渡り、或いは、戦火を逃れて移り住んでいたのでしょう。
生業が異なれば、争いの種は大分減りますが、自然災害は共有しなくてはならず、援け合う機会が生まれ、其れが交流・混交状態を産んで行ったのでしょう。
>>尤も日本が国家として成り立ったのは、他国(支那)の脅威を意識したからですが、自然発生的な国のため、国民が国を意識することに違和感を持っています。
是も同意します。
時代を経る毎に、世界に穀物栽培が広がり、多くの湿地帯や原野が開墾されて人口が増えました。
大陸からの移民も相当数増加しましたが、既に人口/食糧供給比率が飽和状態になって居た大陸では、生存の脅威感から、戦争が日常化して居た。
其処からの移民は当然、列島で暮らす「自然の脅威から生き残る為の人間の共同体」を基本とする和を以て集団と成すモノが持つモラルとは異なる、支配・被支配と云う観念を持ちこむ事となった。
仰る通り、列島民にとって、国とは外来の観念に他ならず、当初は、武力による支配、強制、収奪するシステムと云う意味でしかなかったから反発もあったでしょう。
然し、その様な外来の観念も、年を経る毎に巧みに消化して、日本化するのが、亦、その本来の意味に辿りつき、本来あるべき姿として顕現させるのが、この列島に3万年以上も暮らしてきた民の文化の底力と云うモノです。
国家は、民の上に在るが、民の為に在るから、主が「おほきみ」=スメラミコトであり、民がそのスメラミコトが「おほかみ」に祈念して護るべき「おほみたから」なのです。
この司祭王は権威の王として君臨しつつも、統治を世情に合わせて権力の王と力を併せて行ってきました。
権力の王は時代に依って交代したが、権威の王は万世一系の血統に、「皇霊の依り代」として現れ引き継がれるという考えなのです。
世界で最も安定した平和維持に適したシステムこそ、日本社会で有ろうと思いますが、システムは本質を喪わない様に現状に対応して変化してこそ、正常に働き、自体の維持も可能となるのです。
その為には、国民の心に日本的な国家観を復活せしめなければ、本質を見失ってしまいます。
国は家庭の延長、国土は我が父母の血肉である、そして、その上に日本人の心が花開く社会を築き、次世代に伝えなければならないのです。
篠の目さん、ナポレオン・ソロさん、すみません、返事は後でします。
若者二人が枡添のポスターを貼っていました。どうも枡添を推しているのは公明党のようで。なので恐らく学会員なのでしょう。自民党も公明党(朝鮮系)に乗っ取られているようです。そんな中、石原氏などが応援演説で「外国人参政権に賛成する政治家は駄目だ」とはっきり言うようになり、聴衆がそれに呼応している光景を見ると、潮流を感じます。
日本は自然発生的な国ですが、それは日本民族が自然に会得した知恵で出来た国と言えることです。人間は未だ猿と同様、集団に属する事とボスを必要とします。猿山ではボスの座を争って騒動が起きますが、人間も同じです。大統領や国家主席と名前こそ異なりますが、ボスの座を争っているのは、人間も猿と同じだということです。ボスの座を争って血を見ることは無くなりましたが、代わりは多数派工作、買収や鳴り物入りの宣伝活動です。結局は手練手管で大衆を騙すことです。なのでボスを選挙で選ぶ民主主義が進歩したシステムとは言えないでしょう。共産主義に被れた人は、日本に天皇がいることを封建時代の名残、即ち遅れていると見ますが、共産主義こそ人類の歴史に逆行した猿山の世界です。その点、一億を越す人間集団が平穏に維持できるような、天皇を中心にしたシステムを日本人が選んだのは、日本人は気が付いていませんが日本民族の知恵によるもと思います。日本民族の知恵とは言え、天皇を中心にしたシステムは反日国家や反日集団の工作が多い昨今、国民が意識して維持しなければ潰れてしまう可能性が大です。したがって、必要に応じて君が代を歌い、国旗を掲げることは必要なことと思います。
それでも天皇を否定する人達、否、お猿さん達には、「じゃあどうするの?」と聞くことですね。
「社会や国家が人間にとってどの様に有るべきか?」を、人間の基本に還って考えてみますと、皆究極として、平和で安寧な暮らしがしたいワケです。 殊に女性は、安心して子供を産み育てる事が幸せに一番近いという考えがベース化している様に思います。
問題は、その安寧を齎す規模や範囲と云う事でしょう。
譬え、社会の最小単位である[夫婦」、「親子」レベルに安寧化がとどまった場合でも、人間には、「安らげる場所」さえ有れば、幸せを体感できるでしょう。
処が、その範囲が小さく狭ければ、他の集団の安寧化の意志と手段で競合・対立が生まれ、安寧は不安定なものになります。
其処でその範囲を広げて、多くの人々の安寧を共に護ろうと、郷がf出来、村になり、町になり、県になって、やがて国になるワケです。
此の手法の究極が世界政府が支配する世界国家であり、其れを推進するのがグローバリズムだと思います。
然し、国家間での衝突も始まりは、安寧=平和や充足した生活を護ろうと云うものだったが、何時しか、利己的な目的=拠り富んだ生活がしたい、と云う欧州的な物質的欲望を原動力にした侵略主義が現れて、集団化する事自体、安寧を守る事が主目的では無くなって、亦、彼等は徒に神の名前を騙って利己的な殺人や差別・弾圧を正当化してきました。
文明と云う光は、彼等白人の上に世界史上最も遅れて遣って来たと言えましょう。 多くの有色人種を獣の様に殺害して来た彼等が、今になって、人道や理性を語る事こそ、最も偽善に満ちた話で有ろうと思います。
白人が文明化する迄、騎馬民族や海洋民を例外として、多くの人類にとって世界と云う範囲は、「目に見える範囲=地平線、水平線、亦は、山際迄」に過ぎなかった。
然し、白人文明は、「世界」が定義する範囲を広げ、人々をより利己的にしました。 力の無いモノ、弱きものを虐げ、その報酬として、とびっきりの安寧を手に入れる事が、文明力だと勘違いし始めた様ですが、「強きものが弱きものを援けてこそ平和が在り、安寧が訪れる」と言う、神の教えの欠片も無き世界の考えだと言う他はない。
彼等が、キリスト教以前に信じていた神のレベルや正体が判る話です。 彼等はキリスト教に密かに、自分達の神を忍ばせ、変質を齎して、自分達の野蛮さを正当化して来たのです。
彼等はそうして築き上げた世界に疑義が生じない様に、自分達とは異なる文明に対するに、徹底的な否定をしてきました。
然し、情報化が世界で高度に且急速に発達した結果、文明比較が容易にできるようになりました。
すると、世界一文明が進んでいるという自負心を持った白人文明の構成者に、「自身の文明を律して来た宗教が何故、互いに対立するのか?」更には、「何故に戦争や人殺しが減らないのか?」という日常の単純な問題に、疑問が回帰するに至るようになりました。
之は、白人文明の基となったと言われるメソポタミア文明では、都市神を奉戴していましたが、「良い神」「ダメな神」と云う、功利的な取捨選択が行われて居た事を思い出させます。
欧米では、是までのキリスト教に疑義を呈し始めて、中世の様に、聖書回帰運動、若しくは原理運動に走ったり、キリスト教以外の信仰に走る人々が増えているソウです。
翻って日本を考えますと、古来より神道の「自然の中に、神の意が遍満している」と云う教えが、生活や人々の常識として、沁み込んでいますが、之を宗教と感じる日本人は少なく、寧ろ、感じている方が先行している様に思います。
すると自ずと、神域とされる処への禁忌を犯す事を畏れますが、其れは、神の怒り=自然災害が及ぶ時、犠牲が我が身だけでは無い事で、「自身の身勝手な行動は、抑制するべきだ」と云う潜在意識に結っているのです。
そして、人が皆平等であるという考えは、自然災害の猛威の前には、人間間の小さな利害の衝突や差異は、全く関係ないと言う一点で、気付けます。
驚異の自然=神の為し事の前に、人は只管「生き延びる」為に、力を併せ、お互いに扶け合わねばならないという相互扶助の結論すら導きだせるのです。
結局、日本列島に暮らすモノは、「他に行く処が限定されている人々」なのです。 ダカラ、噴火に埋まっても、地震で家に押しつぶされても、津波で全てを喪っても、生き残った人は、其処で亦暮らそうとするのでしょう。
然し、世界は、次第に此の日本に関心を寄せる人が増えて来ている様です。
神道が規定する事象に、ケガレは有りますが、潔斎する事で禊払う事が出来るとも考えられているのですから、現代日本に残っている差別は、実は、士農工商の身分を公的に定めた江戸時代以降に生まれたものです。 その身分制度にしても、社会を安定させる為に行った刀狩と意図を同じくする単なる職掌による区別でした。
江戸期に、都市の発展によって、農工商業以外の職業の必要が増大したからという成分が在ったとはいえ、エタ・ヒニンといった「社会差別」をワザワザ造り出したのは、仏教の殺生禁忌の現実を無視した敷衍に有ると看て居ます。
いつの時代にも、自分を故なく他よりも一段上にしたいと言う欲望を持つモノが居るのでしょう。
そう云う誤った付加を容れても、日本は世界でトップクラスの平等な国ですから、この先、日本研究者は増えて行くものと思います。
>江戸期に、都市の発展によって、農工商業以外の職業の必要が増大したからという成分が在ったとはいえ、エタ・ヒニンといった「社会差別」をワザワザ造り出したのは、仏教の殺生禁忌の現実を無視した敷衍に有ると看て居ます。
日本人は民族同士の葛藤を経験していません。その為か、自分達の平等意識と階級制度に矛盾を感じても積極的に解決しようとする気概が無いように見えます。
それが封建制度化でのしわ寄せがエタ・ヒニン階級になったのでしょう。民主主義の概念も無かったし、階級制度に手をつければ、秩序が崩壊し大混乱になると思ったからです。
それが明治の開国により、武士階級が進んで特権階級を捨てたのは、西欧というお手本があり、元々日本人が持っていた平等意識によるものと思います。結果、日本は西欧以上の平等国家となりました。
西欧人は矛盾を積極的に解決しようとしますが、必ずしも結果を伴っていません。解決策が過激な思想を伴うからです。しかも完璧な解決策でもない限り、日本人のように我慢して従う人間がいません。
江戸時代の治安の良さは、日本人の我慢強さかも知れません。その我慢強さは、他人を気遣う文化が有るからですが、それが熟成されたのが孤島であることと、長い歴史によるものと思います。
>>階級制度に手をつければ、秩序が崩壊し大混乱になると思ったからです。
そも日本の階級制度は、徳川氏の統一で、応仁の乱以降約170年も続いた乱世に終止符を打ったが、その体制を守るには、封建領主を服従させる以外に、社会に秩序を打ち建て、利己的に不逞を働く者どもから良民を護る事が為政者に求められたと考えます。 則ち「民を生産者(農業)、生産補助者(工業)、流通者(商業)に分ける事で、農本主義態勢を確立、そのシステムの秩序管理者として、武士が存在する」としたものです。 是なら、生産者や生産補助者が、徒に武器を持って互いに戦う必要がなく生産活動に専念できると考えたのでしょう。 その為に、検地を行って、その広さ、地味などの要素から見込生産高を記帳する事で確定させ、潜在武力を弱める為に刀狩を行いました。 勿論、強制力を伴わねばこれ等の事は現実化できませんが。
「武士がシステムの頂点に立って、搾取を行い、従順を強制し、従わぬものを弾圧した。」というのは、西洋史への見做しでしかなく、就中、マルクス史観そのものである事を知るべきです。確かに年貢は徴収しましたが、税金なしで国家を265年も運営できた例は、聞いた事が有りません。 唯、江戸期は世界的に小寒冷期にあり、定期的に旱魃や冷夏が訪れた結果、265年間に人口が殆ど増えていません。 是が農本主義、江戸幕藩体制の崩壊の大きな原因でもあります。
然し乍、日本の歴史上で、農民の暴動を伴った「反乱」は、その動機や数が限られています。 中には、大塩平八郎の様に、秩序を守らせる側にある武士階級が庶民の味方をして、権力に不正を告発した例すらあります。
大塩の行為は、「武士の本分」を真摯に考えた末の事でしょう。 つまりは、「秩序は誰のために守られるべきか?」と言う事です。 権力側に、真に糺すべき成分が存在しているのなら、家を擲ち、身を挺し、名を捨ても、糺すべきと判断したから敵わぬと判っていても兵を挙げたのです。
農本主義の国の本体とは、農民でなくてはなりませんが、その認識は、日本古来からのもので、仁徳帝の遺した御意が「おほみたから=民」である事、就中、「生産する民=漁、農民」である事は明らかです。
民主主義という概念は確かに日本では育っていませんが、仰る様に、平等という意識は、日本人にとって根源的なものに近い。 それはそも島国日本には、ある時代を境に、外来支配勢力が渡来せず、従い、武士も元は農民であった事を潜在的に知っている環境に在ったが故と考えます。
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