http://kojoryoshu83.edoblog.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E7%B5%82%E6%88%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%82%92%E8%BF%8E%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%AB%E3%81%82%E3%81%9F%E3%81%A3%E3%81%A6終戦の日を迎えるにあたって
水戸護国神社には、数々の戦没者の慰霊碑が立っています。その中にの一つに『あゝ戦友の碑』と言うのがあります。ニューギニアで亡くなった戦友の死を悼む碑ですが、自分も含めて現在の日本人を痛烈に批判する碑でもありました。
碑文は風雨にかすれ、全文の読み取りは困難でしたが、インターネットに
全文を載せていた人がおられたので、勝手ながらそれを写し取り、その内容を此処に紹介致します。
(私が写した写真は、整理して保管したつもりでしたが見つかりませんでしたので、画像は掲載できませんでした)
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あゝ戦友の碑
国を想い南溟の果てに散り行きし戦友の亡きがら抱き涙す
とこしえの平和をねがって
過ぐる大東亜戦争に際し、わが茨城県出身の將兵は、第四十一・五十一師団、第四十四兵站等の主力として、昭和十八年一月より昭和二十年八月の終戦に至る間、灼熱瘴癘の地ニューギニアの山野に優勢なる米・豪軍と激闘を続け、実に八千六百三十九名の若い生命を失うに至りました。
これら戦友諸子は、その戦いの場において、命終わらんとするとき、何を願い、何を祈ったことでありましょうか。
終戦後二十七年、わが国は奇跡的ともいうべき復興大発展を遂げ、本県また今日の隆昌を迎えましたが、これこそ、ただひとすじに日本民族の平和と繁栄を願い、無量の望郷の懐いを抱きつつ絶海の地に散華したこれら八千有余の同胞のご加護によるものと信ずるのであります。
昭和四十四年秋県民各層の力強いご支援のもとに私どもニューギニアの生存帰還者は、慰靈收骨団としてニューギニアの戦跡に派遣され、念願久しかった現地慰靈を行なうとともにご遺骨を郷里にお迎えし、翌四十五年春、茨城県護国神社顯勲の塔に納骨し慰靈大祭を催すことを得ました。
しかるに、この二十有星霜、今なお南海の孤島ニューギニアのジャングル奥深く苔むす屍をとどむる英靈の鬼気は陰々として膚に寒く、その慟哭は惻々として耳朶を打つことしきりであります。
ひるがえって、日本の現状に想いを到すとき、世をあげて安逸豊饒の泥海に浸り、巧詐恥なく、若人またその理想を失い堕弱享楽の弊風吹きて止まざるものがあります。
人間として耐えうる限界をはるかに越えた悪條件のもと三年有半にわたる悪戦敢闘の末に散った益荒男の遺志を偲び祖国の前途を思うとき、まことに寒心に堪えざるものを覚えます。
よって、ここに、記念碑を建立し、亡き戦友諸子の冥福を祈るとともにそのいさおしを後世に伝え、もって祖国恒久の平和と繁栄を心からこいねがう次第であります。
昭和四十七年三月吉日
茨城県東部ニューギニア戦友会
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ニューギニアに上陸した日本軍20万の内、生還したのは2万人。実に18万人の日本軍将兵がニューギニアで亡くなったのですが、沖縄、硫黄島、サイパン、インパール、ガダルカナルなどと比べて、それ程語られていません。
餓死、風土病による戦病死、サラワット越えなどによる凍死、転落死、悲惨すぎて語る人が少ないからかも知れませんが、そんな中でも日本軍は逃げ回っていたのでは有りません。
米国の公刊戦史をして、世界一の猛闘--と嘆ぜせしめたブナ地区の戦闘にはじまり(昭和17年10月-18年1月)、また日本兵の驚くべく抵抗--と言わしめたアイタペの戦闘(昭和19年8月)に至るまで、日本軍は強猛に闘ったのであった(以上、伊藤正徳著:帝國陸軍の最後:光人社から)。
彼等は、碑文に有るが如く、人間として耐えうる限界をはるかに越えて祖国のため闘い、一身を捧げたのです。これに対して、安逸豊饒の泥海に浸る我々現代の日本人は、只頭を下げることしか出来ません。
又、この碑文に書かれている師団が所属している第18軍は昭和20年9月に降伏しましたが、その第18軍司令官安達二十三中将は、自らの弁護は一切行わずに部下の減刑嘆願のみを行い、部下の釈放が決まると果物ナイフで割腹した後、自らの首を圧迫する事により自決しました。
戦後ある自衛隊員がオーストラリア軍将校にキャンベラ市にある戦争博物館に案内されたことがありました。そのオーストラリア軍将校は、安達中将の遺品が有るところで止まると姿勢を正し『自分は安達中将を尊敬している』と言ったそうです。
鎮 魂
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