日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください
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日枝の件ですが、先日述べたこと以上は情報をつかんでいなく、再コメントできませんでした。
しかしながら、日枝がフジを牛耳る過程においてライブドア事件などの騒動があり、ライブドアの重役や民主の永田も変な死に方をしたことから、相当やばい背後があるだろうとは思っております。
そのため私は、所謂国際金融資本陣営にのっとられたのではと勘ぐっておりました。
ご迷惑をおかけしました。
さて、今回のエントリーは全くの同感であり、感銘を受けております。
このような問題提起は、著名人と呼ばれる連中からはほとんど聞いたことがありません。且つ、チャンネル桜ではおなじみの富岡氏はその中でも日本語の重要性を述べてはおりますが、その論点は古典だけであり、現在の日本語の利便性及び重要性については触れられておりません。
日本語は英語と比べても、
①漢字などにより情報密度が高い
②節を単位に語順が自由(助詞が文の形を決めている)
③漢字カタカナの存在により品詞の区別が容易
と利点が多いのです。
また、英語では3単元のSにより当事者と第3者(単数)とでは動詞が変わる、もっと言ってしまえば、主語によって同じ動詞も意味が変わるということです。自分が食べるのと他人が食べるのとでは「食べる」こと自体の意味が違うということです。
日本の文化では、相手の気持ち立場を当たり前のように想定しますが、英語圏にしてみれば文法レベルからして想定していないのですから、想像以上に排他的であると認識するべきと思います。
さらに言えば、その排他性は、日本人日本文化では容認できないことでもあります。
そのことからも、一番日本が差別が少ないということは、当然の帰結なのかもしれません。
科学技術の分野でも日本語は英語(ラテン語圏)に劣ることはなく、現に関孝和の時代には線形代数のレベルは西洋を超えていたし、最近証明されたフェルマーの定理も日本人がかなりか関わっています。
もうそろそろ、わざわざ英語で書いた論文が認められるノーベル賞の盲信もやめるべきと思います。
そして、私も日本独自のOSを開発するべきと思っております。機密性を高めるためでも。それこそやる気があれば、直ぐにでもできる公共事業です。
ITに関しては、統一性を重視すると極端に効率化できるものです。ということはマクロ経済の観点からはデフレ促進に寄与してしまします。しかし、言語を独立にすることでも効率性は落ちます。その反面セキュリティーは上がることに成ります。今の日本における状況では、極めて必要なモノと思います。
>勿論、将来でも日本語は使われるであろう。しかしその時は、学術的な事は全て英語となり、日本語は、子供や知識人でない層の言葉として使われる筈である。
私も同様な危惧を持っております。
これでは発展途上国であります。
そんなに国際化したければ、日本語ができなければ生きていけないほど、技術、文化、国力を強くすればよいのです。
どうも教育関係は、主に下村博文が決めたようです。秋入学の推進者でもあり、新自由主義の手先の疑いもあります。
「奴隷の平和はいらない」と自民党政権時代に言ったことではないでしょうか。本末転倒なのです。
ありがとうございます。同意して頂ける方がいるのは、心強いです。
>そして、私も日本独自のOSを開発するべきと思っております。機密性を高めるためでも。それこそやる気があれば、直ぐにでもできる公共事業です。
今やパソコンは個人の一生を記録するものになりつつあります。それがころころ変わる脆弱なOSでは、それを務めることはできないでしょう。産総研などは、KNOPIXの日本語化などをやっていますが、こんな事をやるぐらいなら独自OSを開発すべきでしょう。やる人材も組織も有るのです。
>これでは発展途上国であります。
英語教育をしすぎると、世代間の分断、歴史の分断、即ち日本が過去に蓄積した情報も失うことになります。と言うことは発展途上国から一からやり直せというようなものでしょう。
>そんなに国際化したければ、日本語ができなければ生きていけないほど、技術、文化、国力を強くすればよいのです。
欧米では、すしブームから日本食全般に関心が持たれています。と言っても、日本料理は国際化を意識したものでは有りません。自分達が美味しいと思ったものを追求しただけのものです。
日本人が美味しさを追求した為、日本の食材は支那やフランスの倍程あり、そのお陰で日本人の味覚も発達したそうです。逆に食文化の貧しい英米では味音痴の人の割合も高いとか。
処が国際化国際化と煩い連中から見れば、何時までも偏狭な日本料理のこだわっていると見えるのかも知れません。料理人も英語必須って、なりそうです。
話は変わりますが、イタリア半島にあるサンマリノ共和国が神社を建てるそうです。日本人が持ち込んだ話でも無く、日本の資金援助で神社を建てるのでも有りません。建材や宮大工以外、全てサンマリノ共和国による計画の下に造られるそうです。因みに神主もサンマリノの人とか。
これだって、日本人が先祖代々守り尊んできたから外国の人の目に留まり、キリスト教国なのに神社を作る計画が生まれたのでしょう。別に英語が出来る神主が多かったからでは有りません。
鹿児島弁で、「英語は『テキトー』で十分」と言うとこうなります。
常日頃から国語講師を本業に、英語講師さらに数学講師の何でも屋をやっていますが、おおっぴらに言えないまでも私の本音は「英語などお付き合い程度でよい」というものです。
また逆に言うと、中学英語に毛が生えた程度のやさしい英語で表現できないような意見は大したものではないから、必要あれば自分の意見はそこまでかみ砕くようにしたほうがよいだろうとも。
ご意見の趣旨に全面賛成します。
アルファベットの組み合わせであらゆる事象を表現できると考える浅はかさが英語を母語とする人たちには無意識のうちに定着するように感じます。
漢語、英語まで取り込みながら広汎かつ深い自律的生存を続けているわれらが日本語は強力で、母語とする私たちにはたやすくものごとを断定しない思慮深さが備わります。一方で絶えず新しい生存のあり方を模索する求道のような生き方が可能だし、疲れたらその深みを保ったままで一息つくこともできるわけです。
しかし、本来その担い手として期待される文学界は低迷を続け、長年読み続けてきた芥川賞作品に私個人はもう6~7年前から興味を失い、百人一首などの和歌や古事記あるいは江戸期の俳文等にシフトしています。
私事は措くとして、今後の日本人の技術、コンテンツの充実に国産OSの必要性に同意します。
敗戦後他分野の根幹で、どこか頭を抑えられなかなか突破できない状況がありますが、コンピュータの世界もそうで、まさしく国産OSトロンが邪魔されたことは象徴的です。在日が一枚かんでいたことも後日聞き及び、歯噛みする思いをしました。坂村教授はご健在で相変わらずご活躍ですが、政治家、官僚にトロンを護持する構えがなかった事態に、危惧を持ちます。
安倍さんはじめ、自民党の躍進はいまのところ歓迎していますが、さらに真剣に日本再生、復活、復権に励んでほしいところです。
>鹿児島弁で、「英語は『テキトー』で十分」と言うとこうなります。
現役の英語の先生に言われると、複雑な気持ちになりますが、小学校の英語教育は止めて、塾にすれば全て丸く収まります(笑)。心配はTPPです。公共事業発注の仕様書や、民間の取引でも英語を強制される可能性が有ります。そうなると日本は死語になるでしょう。稲作農家が無くなる以上の問題です。
>漢語、英語まで取り込みながら広汎かつ深い自律的生存を続けているわれらが日本語は強力で、母語とする私たちにはたやすくものごとを断定しない思慮深さが備わります。一方で絶えず新しい生存のあり方を模索する求道のような生き方が可能だし、疲れたらその深みを保ったままで一息つくこともできるわけです。
でも日本語は難しいですね。色々な言い回しがあるから迷ってしまいます。恐らく篠の目さんの言わんとする処は其れだと思いますが、文字を書くこと自体苦手なので、そこまで行っていません。
「武士の家計簿」を書いた磯田道史氏は、「薄暗い書庫の床に座り込んで、ほこりの中を古書をむさぼり読む・・」と言って、日本人の書いたものの中に宝を発見しているですから、英語を学ばなければ発見は無いと考えて人は、チルチル・ミチルと同じ過ちをするでしょう。
>今後の日本人の技術、コンテンツの充実に国産OSの必要性に同意します。
職場には回りに大勢の研究者がいますが、彼らにはワークステーションとパソコンを与えられます。全てワークステーションにすれば良いのですが、UNIXマシンは日本語環境が貧弱です。それでWindwsマシンが必要になるわけですが、無駄です。Windwsの日本語入力のIMEは支那で作っているとか。どういう訳か、このIMEは時々変な動作をします。トロンを潰したことで、日本人は色々なものを取り上げられたようです。
今からTORON開発をしても良いと思います。ソース公開で国民OSにすれば、脆弱性などは国民が指摘し、国民が改善策を考えてくれます。勿論IT技術者は増えます。TORONの頃はRISKかCISKの論争があり「CISKチップのトロンは時代遅れだ」なんて言う人がいましたが、今やRISKのワークステーションより、CISKのパソコンの方が早いので、新たなトロン・チップを開発しても良いと思います。半導体業界も助かりますが、若い技術者にチャレンジさせることで、苦手となってしまったCPU開発技術者を養成できます。
携帯電話でもガラパゴスだったので、パソコンだって許されるでしょう。
問題は、政治家の危機感と意思でしょう。
日本の経営者に目を開いてほしいと願うに、「自社技術の再評価と戦略性の掘り下げ」と云う点が有ります。
例えば、東芝がそれこそ社運を懸けて作った大分の半導体工場でしたが、ご存知の通り、半導体業界は、「ジェットコースター産業」と言われる様に、単年度の浮き沈みの幅が大きい。 是に業を煮やした東芝経営陣が早々に大分工場を閉鎖・撤退して終った。
この企業の振る舞いを評価するに、確かに、大分工場を建設する資金は回収出来たのかもしれません。 建設や生産に関わった従業員も実質解雇だったようですから、撤収するタイミングを採算性だけで諮ったら、経理面は大成功だった事になるでしょう。
解雇された従業員は、僅かな退職金と共に失意の裡に、転職を模索する他はなかった。
折しも、国家経済破綻の憂き目に遭って青息吐息だった韓国が、乾坤一擲、半導体産業に打って出ようと臍を固めていたから、此の失意の技術者集団に声を懸けた。
「韓国の再生にご協力ください。 報酬は東芝の3倍で、重役待遇を用意して居ます」
この誘いは、技術者集団にとって正に干天の慈雨出在った事は言うまでもない。 そして、サムスンは世界一の半導体企業になったワケです。
此のサムスンの賭けの根拠とは、半導体生産の全部をサムスンが握れば、価格も握る事が出来ると云う「覇権主義」で在る事は容易に判りますが、米国も日本もそして欧州勢もそれを遣らなかった。 それはキット半導体の消費量を一定に保てる要因が未だ無かったからでしょう。 それは、日立・NECが後に対抗して建てたエルピーダが、覇権を握れず、価格の乱高下に巨額の赤字を計上して、終息して終った事で、今でも続いていると思います。
そのサムスンも米国企業団に、株式を買い占められて、実質米国企業の傘下企業になって終いましたがね。
問題にしたいのは、こう云う企業間の仁義なき戦いのモラル云々ではなく、何故、日本の企業は、「技術者を大事に扱えないのか?」と云う事です。
日本社会は元々、漁労海産と水耕稲作を生業とする東夷族の影響を多く受けて居ます。 其、社会は、先ず、「船を造る」技術が基礎に在らねば、成立すら難しいでしょう。 船をつくる技術は、様々な範囲の知見・学識の集大成ですし、新たな要求に適した船を造る事で、そうした知見や学識の方も工場・発展できると云う相互関係を持っている。
日本社会では、厳しい自然の中で生きてゆく裡に、造船、航海術の技術の習得や気象・海象の知見等々は、寧ろ。自然な形で吸収されて当たり前の水準が育ってきたから、明治以降の急速な工業化に伍して行く処か、僅か、50年後には彼等をはるかに凌駕する船や飛行機を生み出すに至ったのです。
こういうポジティブな面は、近年よく知られて来た事ですが、その反面のネガティブな事象として、自分達の価値感や道徳観、教育や技術水準すら、世界に汎く行き亘っているとの、無意識の思い込みが存在します。
「和を持って貴しとなす」日本の社会の価値観なら、「成果は、仕事に関わった多くの力のモノであるからには、技術者の仕事ばかり評価できない」と云う、評価法の観点は確かに正しいでしょう。
然しそれで、技術者集団を繋ぎとめられるでしょうか?
現在の日本の家電業の苦境の原因とは、明らかに此の問いに、明快な答えを出せない処に在るのではないでしょうか。
先進の技術の昇華である、新製品も、リバースエンジニアリングで簡単に、敵の手に渡るのですから、経営と技術開発が正比例の関係にない事は、既に自明の理です。 然も、生活に必要なモノは既に飽和状態に達している、随い、是からは、新製品を出せば飛ぶように売れる時代では無いでしょう。
この先は、技術開発が目指す方向を変えて行くしかない。
詰まり、従来目指した、もっと便利に、もっと早く、もっと安く、ではなく、もっと簡単に、もっと安全に、もっと長く使える様なモノを提供すればよいのです。
その為には、メンテナンスエンジニアリングを磨いて行く事だと思います。
電化普及度の低い開発途上国への「中古家電の輸出」は、未開拓の分野でしょうが、原発の建設があちこちで計画されている現状から、途上国でs¥電化製品が売れ始める事態は直ぐに具現化します。
購買力が十分でない途上国へ対処するなら、先ずは、「中古品輸出」を可能にするべき、それには、耐久年数の延長やメンテナンス可能な形にする事こそ望ましい事でではないでしょうか。
勿論、長期的な戦略性を加味すれば、別の答えも在ると思いますが。
>日本の経営者に目を開いてほしいと願うに、「自社技術の再評価と戦略性の掘り下げ」と云う点が有ります。
経営者と言うより、日本社会全般が技術者軽視になっていますね。政治家も同じです。英語教育重視なんかは、その最たるものです。科学立国と言いながら、なんで食っているか理解していないようです。士農工商と身分を決めた江戸時代の武士の方がまだ分かっています。あの時代は農本主義でしたからね。
といって技術者を養成しても、輸出立国を目指すのは間違ってます。円安を武器に輸出を当てにしたら、韓国と同じになってしまいます。輸出目当ての大量生産から、内需だけで高品質と生産性を如何に上げるかが、これからの日本の課題でしょう。
>その為には、メンテナンスエンジニアリングを磨いて行く事だと思います。
逆に若い時に開発・設計を行わすことが、メンテナンスエンジニアリング技術も磨くことになります。マニュアル人間ではメンテナンスはできません。多品種・少量生産になると開発・設計者は一杯必要になります。そこで余った(ロートル)人間をメンテナンスに回せ良いと思います。
最近は事務系の職場にいますが、そこでも技術系の人間の方が潰しが利きます。何事も専門家の養成は必要ですが、日本に必要なのは理科教育です。偏見を込めての意見と言うより、私の危機感からの意見です。
>>技術者を養成しても、輸出立国を目指すのは間違ってます
舌足らずだったかもしれませんね日本が是まで歩んで来た道程から考えれば、輸出立国等は過去の遺物です。
私が目指してほしいのは、電化製品の新しい消費市場の開拓です。 それは、アラブイスラム圏の20億人、アフリカ圏の10億人の消費者で構成されています。
其処で高い電化製品を売るには、今までの先進国に対する製品とはまた違う価値感を持たねばならないし、先ずは、購買力を育てる処から始めなくてはイケナイ。
ちゃんとした野菜畑を造るには、イキナリ種をまくのでは無く、土壌や地の理迄考え、対策を講じてからと云うのに似て居ます。
随い目指して居るのは、モノの輸出ではありません。 人や技術といった、極めて云えば、日本思想の輸出です。
経済繁栄がもたらす、便利さや清潔さと云った豊かさを味わったモノは、その情況を維持しようと考えます。
その情況とは、平和です。
戦争は、貧困から生まれますが、その貧困は利己主義から生じていると云う事に気が着けば、戦争で奪い取るのでは無く、平和を維持する事こそが、多くの人々の経済活動を盛んにし、社会に富を蓄積する事に繋がると云う、近代社会の法則を展開するに至る途である事を理解するのだと思います。
日本は東南アジアで既にこの方式を成功させている、30億人を超える大消費地が、是から次第に目を覚まそうとして居ます。
東南アジアも嘗ては、常時戦火が止む時の無い地域であったが、次第にテロは有っても、近代化され、消費力が上がって来るに随い、戦火が遠ざかり、暴動や戦争は少なくなってきているのではないでしょうか。
>日本に必要なのは理科教育です。偏見を込めての意見と言うより、私の危機感からの意見です。
同感ですが、評価する側に立ってみれば、「理科教育」即ち知恵を評価するには、知識の有無よりはるかに面倒で、多人数の評価は難しいと思います。
資格などの試験も、当然知識を問うものとなるので、知恵がお座成りになる事情が、世間で知識偏重となるのではないかと思います。
やはり1対100以上となると、どうしても知恵は計れないので、社会構造を少人数多階層(例えば4~5人のグループのリーダーが一つ上の階層のグループを作り、そのグループも4~5人で構成され、そのリーダーが更に上の階層のグループと、フラクタル構造を持ったような様)にしないといけないような気がします。
具体的には、地域社会を密にすることでしょうか?原因が分かっても解決は難しいでしょう。
何れにしても、単純な多数集団の纏まりでは如何しても知識偏重の評価にならざるを得ないので、長期的にかつ継続的に社会構造を調整する必要があると思います。
今もそうが如何かわかりませんが、30年ほど前の小学校では児童5~6人の班を作らせていましたが、この方針は評価するべきとは思います。どうしても政治に興味を持ってしまうと、学校教育の問題を指摘しがちですが。
>>輸出立国を目指すのは間違ってます
は、世間の風潮のことを言ったので、ソロさんの事を言ったのでは有りません。でも「消費力は戦争を遠ざける」でしょうか。
日本は支那にそう思って支援しました。結果はさらに強欲を深めることになりました。唯一戦争を遠ざける可能性は、日本の文化に憧れを持つ支那人がいることです。それは、料理やアニメや工業製品を含む全ての物作りに、日本文化の特徴である、気配りや持て成しの心を感じたからではないでしょうか。
世界に広めるべきは、気配りや持て成しの精神であり、日本人自身が意識して取り戻す必要がある文化です。当然発展途上国の人が、他人を持て成す喜びを感じるようになれば、戦争を遠ざけることになるかと思います。
その意味では輸出は反対ではありません。自分達が作った物を世界の人に提供したいと思うのを、妨げる理由は有りません。
日本の理科教育に対して、危機感と言ったのは、国力=国防に結びついているからですが、その他の意味としては、理科教育は即頭で考える能力がつくと言うより、文系の学問より子供の可能性が広がる事もあります。
子供の教育が、ある程度知識偏重になるのは、やむ得ないと思います。周期律表を中等教育で外しましたが、これが丸暗記であっても、覚えていればその内に何故と疑問が生まれます。記憶に無ければ疑問さえ沸きません。それに自然科学は、人類が共通して語り合える学問です。また一個人が追求しても、尽きない学問です。これを子供から取り上げるのは酷な話です。
只、理科教育は個々の能力を高めるだけで、集団としての生き方を教えてくれる学問ではないので、別の教育法も必要でしょう。昔の寺子屋のように、上級生が下級生を責任を持って、教え導く制度が有っても良いと思いますが、日本文明を捨てて西欧文明に接木してまった現在、出来るかどうか難しいところです。
家族崩壊、地域崩壊、国家意識の欠如。日本病とでも言える現在の日本の迷走は、ひょっとしたら日本が最先端にいるからかも知れません。そんな中、日本の過去の知恵にも可能性を見つけなければならないのに、英語教育は止めて欲しいものです。
日枝の件ですが、先日述べたこと以上は情報をつかんでいなく、再コメントできませんでした。
しかしながら、日枝がフジを牛耳る過程においてライブドア事件などの騒動があり、ライブドアの重役や民主の永田も変な死に方をしたことから、相当やばい背後があるだろうとは思っております。
そのため私は、所謂国際金融資本陣営にのっとられたのではと勘ぐっておりました。
ご迷惑をおかけしました。
さて、今回のエントリーは全くの同感であり、感銘を受けております。
このような問題提起は、著名人と呼ばれる連中からはほとんど聞いたことがありません。且つ、チャンネル桜ではおなじみの富岡氏はその中でも日本語の重要性を述べてはおりますが、その論点は古典だけであり、現在の日本語の利便性及び重要性については触れられておりません。
日本語は英語と比べても、
①漢字などにより情報密度が高い
②節を単位に語順が自由(助詞が文の形を決めている)
③漢字カタカナの存在により品詞の区別が容易
と利点が多いのです。
また、英語では3単元のSにより当事者と第3者(単数)とでは動詞が変わる、もっと言ってしまえば、主語によって同じ動詞も意味が変わるということです。自分が食べるのと他人が食べるのとでは「食べる」こと自体の意味が違うということです。
日本の文化では、相手の気持ち立場を当たり前のように想定しますが、英語圏にしてみれば文法レベルからして想定していないのですから、想像以上に排他的であると認識するべきと思います。
さらに言えば、その排他性は、日本人日本文化では容認できないことでもあります。
そのことからも、一番日本が差別が少ないということは、当然の帰結なのかもしれません。
科学技術の分野でも日本語は英語(ラテン語圏)に劣ることはなく、現に関孝和の時代には線形代数のレベルは西洋を超えていたし、最近証明されたフェルマーの定理も日本人がかなりか関わっています。
もうそろそろ、わざわざ英語で書いた論文が認められるノーベル賞の盲信もやめるべきと思います。
そして、私も日本独自のOSを開発するべきと思っております。機密性を高めるためでも。それこそやる気があれば、直ぐにでもできる公共事業です。
ITに関しては、統一性を重視すると極端に効率化できるものです。ということはマクロ経済の観点からはデフレ促進に寄与してしまします。しかし、言語を独立にすることでも効率性は落ちます。その反面セキュリティーは上がることに成ります。今の日本における状況では、極めて必要なモノと思います。
>勿論、将来でも日本語は使われるであろう。しかしその時は、学術的な事は全て英語となり、日本語は、子供や知識人でない層の言葉として使われる筈である。
私も同様な危惧を持っております。
これでは発展途上国であります。
そんなに国際化したければ、日本語ができなければ生きていけないほど、技術、文化、国力を強くすればよいのです。
どうも教育関係は、主に下村博文が決めたようです。秋入学の推進者でもあり、新自由主義の手先の疑いもあります。
「奴隷の平和はいらない」と自民党政権時代に言ったことではないでしょうか。本末転倒なのです。
ありがとうございます。同意して頂ける方がいるのは、心強いです。
>そして、私も日本独自のOSを開発するべきと思っております。機密性を高めるためでも。それこそやる気があれば、直ぐにでもできる公共事業です。
今やパソコンは個人の一生を記録するものになりつつあります。それがころころ変わる脆弱なOSでは、それを務めることはできないでしょう。産総研などは、KNOPIXの日本語化などをやっていますが、こんな事をやるぐらいなら独自OSを開発すべきでしょう。やる人材も組織も有るのです。
>これでは発展途上国であります。
英語教育をしすぎると、世代間の分断、歴史の分断、即ち日本が過去に蓄積した情報も失うことになります。と言うことは発展途上国から一からやり直せというようなものでしょう。
>そんなに国際化したければ、日本語ができなければ生きていけないほど、技術、文化、国力を強くすればよいのです。
欧米では、すしブームから日本食全般に関心が持たれています。と言っても、日本料理は国際化を意識したものでは有りません。自分達が美味しいと思ったものを追求しただけのものです。
日本人が美味しさを追求した為、日本の食材は支那やフランスの倍程あり、そのお陰で日本人の味覚も発達したそうです。逆に食文化の貧しい英米では味音痴の人の割合も高いとか。
処が国際化国際化と煩い連中から見れば、何時までも偏狭な日本料理のこだわっていると見えるのかも知れません。料理人も英語必須って、なりそうです。
話は変わりますが、イタリア半島にあるサンマリノ共和国が神社を建てるそうです。日本人が持ち込んだ話でも無く、日本の資金援助で神社を建てるのでも有りません。建材や宮大工以外、全てサンマリノ共和国による計画の下に造られるそうです。因みに神主もサンマリノの人とか。
これだって、日本人が先祖代々守り尊んできたから外国の人の目に留まり、キリスト教国なのに神社を作る計画が生まれたのでしょう。別に英語が出来る神主が多かったからでは有りません。
鹿児島弁で、「英語は『テキトー』で十分」と言うとこうなります。
常日頃から国語講師を本業に、英語講師さらに数学講師の何でも屋をやっていますが、おおっぴらに言えないまでも私の本音は「英語などお付き合い程度でよい」というものです。
また逆に言うと、中学英語に毛が生えた程度のやさしい英語で表現できないような意見は大したものではないから、必要あれば自分の意見はそこまでかみ砕くようにしたほうがよいだろうとも。
ご意見の趣旨に全面賛成します。
アルファベットの組み合わせであらゆる事象を表現できると考える浅はかさが英語を母語とする人たちには無意識のうちに定着するように感じます。
漢語、英語まで取り込みながら広汎かつ深い自律的生存を続けているわれらが日本語は強力で、母語とする私たちにはたやすくものごとを断定しない思慮深さが備わります。一方で絶えず新しい生存のあり方を模索する求道のような生き方が可能だし、疲れたらその深みを保ったままで一息つくこともできるわけです。
しかし、本来その担い手として期待される文学界は低迷を続け、長年読み続けてきた芥川賞作品に私個人はもう6~7年前から興味を失い、百人一首などの和歌や古事記あるいは江戸期の俳文等にシフトしています。
私事は措くとして、今後の日本人の技術、コンテンツの充実に国産OSの必要性に同意します。
敗戦後他分野の根幹で、どこか頭を抑えられなかなか突破できない状況がありますが、コンピュータの世界もそうで、まさしく国産OSトロンが邪魔されたことは象徴的です。在日が一枚かんでいたことも後日聞き及び、歯噛みする思いをしました。坂村教授はご健在で相変わらずご活躍ですが、政治家、官僚にトロンを護持する構えがなかった事態に、危惧を持ちます。
安倍さんはじめ、自民党の躍進はいまのところ歓迎していますが、さらに真剣に日本再生、復活、復権に励んでほしいところです。
>鹿児島弁で、「英語は『テキトー』で十分」と言うとこうなります。
現役の英語の先生に言われると、複雑な気持ちになりますが、小学校の英語教育は止めて、塾にすれば全て丸く収まります(笑)。心配はTPPです。公共事業発注の仕様書や、民間の取引でも英語を強制される可能性が有ります。そうなると日本は死語になるでしょう。稲作農家が無くなる以上の問題です。
>漢語、英語まで取り込みながら広汎かつ深い自律的生存を続けているわれらが日本語は強力で、母語とする私たちにはたやすくものごとを断定しない思慮深さが備わります。一方で絶えず新しい生存のあり方を模索する求道のような生き方が可能だし、疲れたらその深みを保ったままで一息つくこともできるわけです。
でも日本語は難しいですね。色々な言い回しがあるから迷ってしまいます。恐らく篠の目さんの言わんとする処は其れだと思いますが、文字を書くこと自体苦手なので、そこまで行っていません。
「武士の家計簿」を書いた磯田道史氏は、「薄暗い書庫の床に座り込んで、ほこりの中を古書をむさぼり読む・・」と言って、日本人の書いたものの中に宝を発見しているですから、英語を学ばなければ発見は無いと考えて人は、チルチル・ミチルと同じ過ちをするでしょう。
>今後の日本人の技術、コンテンツの充実に国産OSの必要性に同意します。
職場には回りに大勢の研究者がいますが、彼らにはワークステーションとパソコンを与えられます。全てワークステーションにすれば良いのですが、UNIXマシンは日本語環境が貧弱です。それでWindwsマシンが必要になるわけですが、無駄です。Windwsの日本語入力のIMEは支那で作っているとか。どういう訳か、このIMEは時々変な動作をします。トロンを潰したことで、日本人は色々なものを取り上げられたようです。
今からTORON開発をしても良いと思います。ソース公開で国民OSにすれば、脆弱性などは国民が指摘し、国民が改善策を考えてくれます。勿論IT技術者は増えます。TORONの頃はRISKかCISKの論争があり「CISKチップのトロンは時代遅れだ」なんて言う人がいましたが、今やRISKのワークステーションより、CISKのパソコンの方が早いので、新たなトロン・チップを開発しても良いと思います。半導体業界も助かりますが、若い技術者にチャレンジさせることで、苦手となってしまったCPU開発技術者を養成できます。
携帯電話でもガラパゴスだったので、パソコンだって許されるでしょう。
問題は、政治家の危機感と意思でしょう。
日本の経営者に目を開いてほしいと願うに、「自社技術の再評価と戦略性の掘り下げ」と云う点が有ります。
例えば、東芝がそれこそ社運を懸けて作った大分の半導体工場でしたが、ご存知の通り、半導体業界は、「ジェットコースター産業」と言われる様に、単年度の浮き沈みの幅が大きい。 是に業を煮やした東芝経営陣が早々に大分工場を閉鎖・撤退して終った。
この企業の振る舞いを評価するに、確かに、大分工場を建設する資金は回収出来たのかもしれません。 建設や生産に関わった従業員も実質解雇だったようですから、撤収するタイミングを採算性だけで諮ったら、経理面は大成功だった事になるでしょう。
解雇された従業員は、僅かな退職金と共に失意の裡に、転職を模索する他はなかった。
折しも、国家経済破綻の憂き目に遭って青息吐息だった韓国が、乾坤一擲、半導体産業に打って出ようと臍を固めていたから、此の失意の技術者集団に声を懸けた。
「韓国の再生にご協力ください。 報酬は東芝の3倍で、重役待遇を用意して居ます」
この誘いは、技術者集団にとって正に干天の慈雨出在った事は言うまでもない。 そして、サムスンは世界一の半導体企業になったワケです。
此のサムスンの賭けの根拠とは、半導体生産の全部をサムスンが握れば、価格も握る事が出来ると云う「覇権主義」で在る事は容易に判りますが、米国も日本もそして欧州勢もそれを遣らなかった。 それはキット半導体の消費量を一定に保てる要因が未だ無かったからでしょう。 それは、日立・NECが後に対抗して建てたエルピーダが、覇権を握れず、価格の乱高下に巨額の赤字を計上して、終息して終った事で、今でも続いていると思います。
そのサムスンも米国企業団に、株式を買い占められて、実質米国企業の傘下企業になって終いましたがね。
問題にしたいのは、こう云う企業間の仁義なき戦いのモラル云々ではなく、何故、日本の企業は、「技術者を大事に扱えないのか?」と云う事です。
日本社会は元々、漁労海産と水耕稲作を生業とする東夷族の影響を多く受けて居ます。 其、社会は、先ず、「船を造る」技術が基礎に在らねば、成立すら難しいでしょう。 船をつくる技術は、様々な範囲の知見・学識の集大成ですし、新たな要求に適した船を造る事で、そうした知見や学識の方も工場・発展できると云う相互関係を持っている。
日本社会では、厳しい自然の中で生きてゆく裡に、造船、航海術の技術の習得や気象・海象の知見等々は、寧ろ。自然な形で吸収されて当たり前の水準が育ってきたから、明治以降の急速な工業化に伍して行く処か、僅か、50年後には彼等をはるかに凌駕する船や飛行機を生み出すに至ったのです。
こういうポジティブな面は、近年よく知られて来た事ですが、その反面のネガティブな事象として、自分達の価値感や道徳観、教育や技術水準すら、世界に汎く行き亘っているとの、無意識の思い込みが存在します。
「和を持って貴しとなす」日本の社会の価値観なら、「成果は、仕事に関わった多くの力のモノであるからには、技術者の仕事ばかり評価できない」と云う、評価法の観点は確かに正しいでしょう。
然しそれで、技術者集団を繋ぎとめられるでしょうか?
現在の日本の家電業の苦境の原因とは、明らかに此の問いに、明快な答えを出せない処に在るのではないでしょうか。
先進の技術の昇華である、新製品も、リバースエンジニアリングで簡単に、敵の手に渡るのですから、経営と技術開発が正比例の関係にない事は、既に自明の理です。 然も、生活に必要なモノは既に飽和状態に達している、随い、是からは、新製品を出せば飛ぶように売れる時代では無いでしょう。
この先は、技術開発が目指す方向を変えて行くしかない。
詰まり、従来目指した、もっと便利に、もっと早く、もっと安く、ではなく、もっと簡単に、もっと安全に、もっと長く使える様なモノを提供すればよいのです。
その為には、メンテナンスエンジニアリングを磨いて行く事だと思います。
電化普及度の低い開発途上国への「中古家電の輸出」は、未開拓の分野でしょうが、原発の建設があちこちで計画されている現状から、途上国でs¥電化製品が売れ始める事態は直ぐに具現化します。
購買力が十分でない途上国へ対処するなら、先ずは、「中古品輸出」を可能にするべき、それには、耐久年数の延長やメンテナンス可能な形にする事こそ望ましい事でではないでしょうか。
勿論、長期的な戦略性を加味すれば、別の答えも在ると思いますが。
>日本の経営者に目を開いてほしいと願うに、「自社技術の再評価と戦略性の掘り下げ」と云う点が有ります。
経営者と言うより、日本社会全般が技術者軽視になっていますね。政治家も同じです。英語教育重視なんかは、その最たるものです。科学立国と言いながら、なんで食っているか理解していないようです。士農工商と身分を決めた江戸時代の武士の方がまだ分かっています。あの時代は農本主義でしたからね。
といって技術者を養成しても、輸出立国を目指すのは間違ってます。円安を武器に輸出を当てにしたら、韓国と同じになってしまいます。輸出目当ての大量生産から、内需だけで高品質と生産性を如何に上げるかが、これからの日本の課題でしょう。
>その為には、メンテナンスエンジニアリングを磨いて行く事だと思います。
逆に若い時に開発・設計を行わすことが、メンテナンスエンジニアリング技術も磨くことになります。マニュアル人間ではメンテナンスはできません。多品種・少量生産になると開発・設計者は一杯必要になります。そこで余った(ロートル)人間をメンテナンスに回せ良いと思います。
最近は事務系の職場にいますが、そこでも技術系の人間の方が潰しが利きます。何事も専門家の養成は必要ですが、日本に必要なのは理科教育です。偏見を込めての意見と言うより、私の危機感からの意見です。
>>技術者を養成しても、輸出立国を目指すのは間違ってます
舌足らずだったかもしれませんね日本が是まで歩んで来た道程から考えれば、輸出立国等は過去の遺物です。
私が目指してほしいのは、電化製品の新しい消費市場の開拓です。 それは、アラブイスラム圏の20億人、アフリカ圏の10億人の消費者で構成されています。
其処で高い電化製品を売るには、今までの先進国に対する製品とはまた違う価値感を持たねばならないし、先ずは、購買力を育てる処から始めなくてはイケナイ。
ちゃんとした野菜畑を造るには、イキナリ種をまくのでは無く、土壌や地の理迄考え、対策を講じてからと云うのに似て居ます。
随い目指して居るのは、モノの輸出ではありません。 人や技術といった、極めて云えば、日本思想の輸出です。
経済繁栄がもたらす、便利さや清潔さと云った豊かさを味わったモノは、その情況を維持しようと考えます。
その情況とは、平和です。
戦争は、貧困から生まれますが、その貧困は利己主義から生じていると云う事に気が着けば、戦争で奪い取るのでは無く、平和を維持する事こそが、多くの人々の経済活動を盛んにし、社会に富を蓄積する事に繋がると云う、近代社会の法則を展開するに至る途である事を理解するのだと思います。
日本は東南アジアで既にこの方式を成功させている、30億人を超える大消費地が、是から次第に目を覚まそうとして居ます。
東南アジアも嘗ては、常時戦火が止む時の無い地域であったが、次第にテロは有っても、近代化され、消費力が上がって来るに随い、戦火が遠ざかり、暴動や戦争は少なくなってきているのではないでしょうか。
>日本に必要なのは理科教育です。偏見を込めての意見と言うより、私の危機感からの意見です。
同感ですが、評価する側に立ってみれば、「理科教育」即ち知恵を評価するには、知識の有無よりはるかに面倒で、多人数の評価は難しいと思います。
資格などの試験も、当然知識を問うものとなるので、知恵がお座成りになる事情が、世間で知識偏重となるのではないかと思います。
やはり1対100以上となると、どうしても知恵は計れないので、社会構造を少人数多階層(例えば4~5人のグループのリーダーが一つ上の階層のグループを作り、そのグループも4~5人で構成され、そのリーダーが更に上の階層のグループと、フラクタル構造を持ったような様)にしないといけないような気がします。
具体的には、地域社会を密にすることでしょうか?原因が分かっても解決は難しいでしょう。
何れにしても、単純な多数集団の纏まりでは如何しても知識偏重の評価にならざるを得ないので、長期的にかつ継続的に社会構造を調整する必要があると思います。
今もそうが如何かわかりませんが、30年ほど前の小学校では児童5~6人の班を作らせていましたが、この方針は評価するべきとは思います。どうしても政治に興味を持ってしまうと、学校教育の問題を指摘しがちですが。
>>輸出立国を目指すのは間違ってます
は、世間の風潮のことを言ったので、ソロさんの事を言ったのでは有りません。でも「消費力は戦争を遠ざける」でしょうか。
日本は支那にそう思って支援しました。結果はさらに強欲を深めることになりました。唯一戦争を遠ざける可能性は、日本の文化に憧れを持つ支那人がいることです。それは、料理やアニメや工業製品を含む全ての物作りに、日本文化の特徴である、気配りや持て成しの心を感じたからではないでしょうか。
世界に広めるべきは、気配りや持て成しの精神であり、日本人自身が意識して取り戻す必要がある文化です。当然発展途上国の人が、他人を持て成す喜びを感じるようになれば、戦争を遠ざけることになるかと思います。
その意味では輸出は反対ではありません。自分達が作った物を世界の人に提供したいと思うのを、妨げる理由は有りません。
日本の理科教育に対して、危機感と言ったのは、国力=国防に結びついているからですが、その他の意味としては、理科教育は即頭で考える能力がつくと言うより、文系の学問より子供の可能性が広がる事もあります。
子供の教育が、ある程度知識偏重になるのは、やむ得ないと思います。周期律表を中等教育で外しましたが、これが丸暗記であっても、覚えていればその内に何故と疑問が生まれます。記憶に無ければ疑問さえ沸きません。それに自然科学は、人類が共通して語り合える学問です。また一個人が追求しても、尽きない学問です。これを子供から取り上げるのは酷な話です。
只、理科教育は個々の能力を高めるだけで、集団としての生き方を教えてくれる学問ではないので、別の教育法も必要でしょう。昔の寺子屋のように、上級生が下級生を責任を持って、教え導く制度が有っても良いと思いますが、日本文明を捨てて西欧文明に接木してまった現在、出来るかどうか難しいところです。
家族崩壊、地域崩壊、国家意識の欠如。日本病とでも言える現在の日本の迷走は、ひょっとしたら日本が最先端にいるからかも知れません。そんな中、日本の過去の知恵にも可能性を見つけなければならないのに、英語教育は止めて欲しいものです。
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