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崗上虜囚の備忘録

日本よ!。私の日本への思いです。 コメントに返事を書かないこともあります。悪しからず。 コメントの投稿は日本人だけにしてください。 日本人でない場合は、国籍を書いてください。 注、google chromeで閲覧出来ませんので、filefoxかinternet explorerで閲覧してください

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無題

身に余るおほめの言葉で、恐縮です。

崗上虜囚さん(失礼とは思いますが普段どうりコメントさせていただきます)は、まるで、、袈裟を掛けられた方のようです。

私のような者にも、なんとなく深いところまで透徹されているように感じられます。


禅の書物は、学生の頃むさぼるように読んだ覚えがあります。
が、さっぱりわかりませんでした。

神秀と慧能の逸話というのは、たぶん禅を学べば知る人は多いと思うのですが、私も、その頃は神秀というのは慧能の引き立て役のような感覚でとらえていました。
悟りとはいったいどんなものかと考えはしますが、想像もつきません。
未だにです。

十牛図というものがありますね。
崗上虜囚さんのおっしゃるように、悟りとは始まりのことだと言うのは、そうなのかもしれないですね。
十牛図にもそういったニュアンスがあるように思われます。

とにかく、仏教と言うのは難解です。私なんかの手に負えるようなしろものではないと感じたりもします。
人間には個人差と言うものがあり、釈迦が到達された境地と言うものを知ることは他人では無理ともいえるかと思います。

特に、あの時代、、、。
なんとなく、天が近い時代だったように感じます。釈迦が生きた時代には、多くの啓示が下りた時代ともいえると思います。
老子もたぶん、あの時代ですね。
現代の、思想の源流の時代とも言えるかもしれません。

と、話がそれましたが、慧能の偈というのが本来の禅なんだろうとは思っています。

ただ、人生を積み重ねるのにしたがって、神秀の言わんとしたところもよくわかるようになりました。
何事もそうだろうとは思うのですが、人間は失敗を積み重ねて成長していくものです。

そこに、

時時に勤めて、払拭せよ
塵埃を惹かしむる勿れ

の部分に共感するところが多くなってきたものと思います。


人も、社会も一足飛びに、完成を期待したいところが多のもわかる気はしますが、やはり急ぎ過ぎみたいな気がするのも事実です。


・・・・

実は、コメントを書く前に、久しぶりに仏教関係の勉強を復習しました。
人によって、ずいぶんとお経の解釈も違うなと、思った次第です。

釈迦の感じた世界、感得した世界とは一体どのようなものなんでしょう?
興味は尽きません。


ところで、日本の白隠禅師の書物もずいぶん読みました。
不思議な題名が多いですね。
内観の大切さを知りました。

続きが楽しみです。
支離滅裂で申しわけありませんが失礼致します。

無題

杜若 様
私も禅書を読んだのは、学生の頃です。きっかけは、禅と書かれた一日一枚めくりのカレンダです。そこに『色即是空』と書かれた1枚が有り、翌日は『空即是色』と書かれていました。『うん?、どっかで見たことがある』、家の仏壇に有りました。そのとき、お経が漢文で書かれているのを知りました。漢文等あまり勉強していなかったのですが、意味は通じました。

何故、色即是空、空即是色に引っかかったか。それはちょうど、自然は何故意識を持つようになったかとか、人口頭脳に意思を持たせることが可能かを考えている時でした。それは可能ですが、翻って自分の意識はどの様な状態で、意思はどのように持つようになったかと考えたとき、それは釈迦の因縁と同じ、原因と結果から生じるもので、意識も意思も無だと結論していました。そこに色即是空、空即是色の一句が飛び込んできたのです。

その時の感想は『なんだ釈迦も同じことを考えていたのか』です。それから禅書を探し、『柳は緑、花は紅』の句を見つければ『柳は緑ならず、花は紅ならず』もあるだろうと探すとやはり有り、勝手に『魚は飛んで魚の如く、鳥は泳いで鳥の如く』などの句作ったりしましたが、これも禅句に有りました。従って、禅の本は買いましたけど、隅から隅まで読んでいません。

最近は、分子生物学者の女性が、新般若心経を作ったりしています。原子物理、分子生物学、大脳生理学、人工頭脳、意味論、皆根本原理を考えなければならない学問です。。ここら辺の研究者が仏教真理に一番近い存在でしょうか。それでも『色即是空』だけで留まる人、『空即是色』まで行く人はいるかと思いますが、『羯諦羯諦・・』まで行く人は少ないでしょう。やはり釈迦は偉大です。

と言うのも空。と言うのも空。・・


>特に、あの時代、、、。
現代人は、忙しすぎます。windows,linux,execl,java,C、こんなの覚えても50年後に通用するとは思いません。じっくり考える時間が必要でしょう。

>ところで、日本の白隠禅師の書物もずいぶん読みました。
片手の無声の音上。私はうっちゃっています。

禅・達磨の目1

オウム真理教によるサリン事件は、高学歴の者の馬鹿さ加減が世間に知られるようになりました。オウムの幹部達は、東大の物理、阪大の物理、京大の法学部、筑波大の化学、早大工学部、慶大医学部出身と蒼々たる秀才連中でした。

このたびのTPP騒ぎでも、日本に何ら得にならないTPPを熱心に推進しているのも、皆高学歴の人間です。又日本を破壊することに熱心な民主党の閣僚も、皆東大を始めとする有名大学出身。しかし、世間から見たら只の馬鹿者。一生懸命勉強したのでしょうが、一様に言えるのは、彼等に物事の根本を考える能力が無いことです。要するに彼等に共通するのは思考の不徹底です。

それに引き換え一般庶民の方が、遥かに思慮深いようです。それは、ちやほやされる訳でもなく、はったりを言う必要も無く、驕りになど無縁な環境にいるからでしょう。このエントリーは、その思慮深い市井の一人、杜若さんへの回答です。

2011/10/24の『神道、仏教、禅』エントリーでは、日本に伝来した禅宗は6祖慧能から始まった南禅であると書きました。それに対して、杜若さんから神秀の偈の方に愛着が湧きますとの返事を頂ました。(いや神秀さえも知っているとは、否やはりと言うべきか)

これについて少し説明をすると、禅宗はダルマを開祖として続いていましたが、5祖弘忍の下で北禅と南禅に別れたのです。それは弘忍が6祖を選ぶにあったて、有志の者に『自己の境界を偈に作って公表せよ』と言ったことから始まりました。その偈の一つが、杜若さん示してくれた神秀の偈です。
  身は、是菩提樹
  心は、明鏡台の如し
  時時に勤めて、払拭せよ
  塵埃を惹かしむる勿れ

神秀は既に教授師になっており、自他共認める高弟でした。一方、慧能は文字も読めぬ卑賤の出身で、雑用を行っていた作務男でした。慧能は雑用を行っていた為、神秀の偈の公表を知らなかったが、一童子がその偈を暗唱たのを聞き、自らの偈を作り神秀の傍に展示した。それが下の偈です。
  菩提、本、樹無し
  明鏡、亦、台にあらず
  本来無一物
  何の処か、塵埃を惹かん

5祖弘忍はこれを見て、慧能を部屋に呼び金剛経を説かれた。慧能は金剛経の中の一節『応無所住而生基心(まさに住する所無くしてしかも其の心を生ずべし)』で確信し、弘忍もこれを認めて伝来の衣鉢を伝授した。そして慧能は山を降り神秀は留まり、それが南禅と北禅に別れた始まりであった、と伝わっています。

もっとも、これは後世の誰か(南禅の人)が創作したものだとの意見もあり、禅宗の開祖ダルマがいた事も疑っている人もいます。又、禅宗には座禅だけでは無く、拳法のようなトレーニング法も有り、飯炊き坊主が始めた南禅により、それが捨て去られてしまっていると言う人もいます。師・宗道臣ですが。でも南禅が支那で盛んになり、日本でも盛んになったのは何かが有ったのでしょう。


禅・達磨の目1
人は何故宗教に入るのか、それは安心立命の境地を得る為である。また人は何故思想を持ち、その思想で物事を断じようとするのか。それも同じ、絶対的な思想に到達できれば何事が起ころうが、それによりあらゆることが説明が出来き、不可解なことに不安を感じることが無いと思うからである。禅も同じである。目的は安心立命である。

禅による安心立命の手段は、座禅等による訓練と悟りの二つである。自分の生命を捨てることが勤めであった武士であれば、事に及んで狼狽等すれば後れを取ることになる。第一狼狽等恥じである。従って、如何なる事態になっても平常心を保てるかは、武士達の一大関心時で有った。多くの武士が禅に勤しんだのはこの為である。

座禅の効用の一つは、自動制御理論の臨界制動のように、一時の心の乱れを最短に収束する能力が得られることである。しかし心が乱れる要因は、一時的な物理的要因だけでは無い。男は家を出ると7人の敵がいると言われる如く、心が乱れる要因は四六時中有る。仕事を家に持ち込めば、寝ても醒めても心の乱れる要因に付きまとわれる。

それは物理的要因と言うより、仔細に考えれば言語が要因である。『おまえのかーちゃんでべそ』から、誹謗中傷、美人の謎かけ等、心を乱す要因は言語である。釈迦が克服しようした老・病・死さえ言語である。人は言語に悩まされていると言って過言では無い。悟りとは、その言語の本質に気が付くこと、即ち悟ることである。

悟らず、安心立命を得ることはできる。その一つがキリスト教などの信仰に入ることである。その場合、心が乱れる絶対神の言葉以外の言葉は只の雑言、聞く耳は持たない。従って安心立命を得られても、心の自由度は狭まる。しかも今度は絶対神を守らなければならない立場となる。又、山深く入り下界を捨て、座禅三昧の生活でもすれば、安心立命の境地になれるかも知れない。だが下界の人間が押し寄せてくれば、その境地も脅かされる。どちらも指導者としては不適格だろう。

凡そ、一言有る者は悟るべきだろう。否、悟れる筈である。

般若心経では、色即是空と言っているでは無いか。金剛教にも、世界は世界に非ず名付けて世界と言っているでは無いか。摩訶止観で、も心が過去に有るとするなら過去は過ぎ去っており、未来に有るとするなら未来は未だ来たらず、現在に有るとするなら現在は止まること無く流れ、心が留まる処など無いと説いているでは無いか。

経典に頼らず共、現代物理を知れば意識も心も、エネルギー流れの一つにしかすぎない。否、現代物理を知らずとも、自然も自己も分けようも無いのが分かる筈である。言語の始まりを考え、言語を思い浮かべなければ、物質どころか空も無も無い世界であることが分かる筈である。もうじき人工頭脳で意思でさえ作りだせる時代が来る。

それでも悟れないのは、着眼点の不徹底、探し方の不徹底、思考の不徹底だからである。尤も悟ったとしてもスキルが上がる訳でも無く、得になる事は無い。せっかく色即是空と言ったかと思うとすぐに空即是色と言うように、何かが変わる訳では無い。

悟りは始まりなのである。続く。
  
右:雪舟・恵可断臂図

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身に余るおほめの言葉で、恐縮です。

崗上虜囚さん(失礼とは思いますが普段どうりコメントさせていただきます)は、まるで、、袈裟を掛けられた方のようです。

私のような者にも、なんとなく深いところまで透徹されているように感じられます。


禅の書物は、学生の頃むさぼるように読んだ覚えがあります。
が、さっぱりわかりませんでした。

神秀と慧能の逸話というのは、たぶん禅を学べば知る人は多いと思うのですが、私も、その頃は神秀というのは慧能の引き立て役のような感覚でとらえていました。
悟りとはいったいどんなものかと考えはしますが、想像もつきません。
未だにです。

十牛図というものがありますね。
崗上虜囚さんのおっしゃるように、悟りとは始まりのことだと言うのは、そうなのかもしれないですね。
十牛図にもそういったニュアンスがあるように思われます。

とにかく、仏教と言うのは難解です。私なんかの手に負えるようなしろものではないと感じたりもします。
人間には個人差と言うものがあり、釈迦が到達された境地と言うものを知ることは他人では無理ともいえるかと思います。

特に、あの時代、、、。
なんとなく、天が近い時代だったように感じます。釈迦が生きた時代には、多くの啓示が下りた時代ともいえると思います。
老子もたぶん、あの時代ですね。
現代の、思想の源流の時代とも言えるかもしれません。

と、話がそれましたが、慧能の偈というのが本来の禅なんだろうとは思っています。

ただ、人生を積み重ねるのにしたがって、神秀の言わんとしたところもよくわかるようになりました。
何事もそうだろうとは思うのですが、人間は失敗を積み重ねて成長していくものです。

そこに、

時時に勤めて、払拭せよ
塵埃を惹かしむる勿れ

の部分に共感するところが多くなってきたものと思います。


人も、社会も一足飛びに、完成を期待したいところが多のもわかる気はしますが、やはり急ぎ過ぎみたいな気がするのも事実です。


・・・・

実は、コメントを書く前に、久しぶりに仏教関係の勉強を復習しました。
人によって、ずいぶんとお経の解釈も違うなと、思った次第です。

釈迦の感じた世界、感得した世界とは一体どのようなものなんでしょう?
興味は尽きません。


ところで、日本の白隠禅師の書物もずいぶん読みました。
不思議な題名が多いですね。
内観の大切さを知りました。

続きが楽しみです。
支離滅裂で申しわけありませんが失礼致します。

無題

杜若 様
私も禅書を読んだのは、学生の頃です。きっかけは、禅と書かれた一日一枚めくりのカレンダです。そこに『色即是空』と書かれた1枚が有り、翌日は『空即是色』と書かれていました。『うん?、どっかで見たことがある』、家の仏壇に有りました。そのとき、お経が漢文で書かれているのを知りました。漢文等あまり勉強していなかったのですが、意味は通じました。

何故、色即是空、空即是色に引っかかったか。それはちょうど、自然は何故意識を持つようになったかとか、人口頭脳に意思を持たせることが可能かを考えている時でした。それは可能ですが、翻って自分の意識はどの様な状態で、意思はどのように持つようになったかと考えたとき、それは釈迦の因縁と同じ、原因と結果から生じるもので、意識も意思も無だと結論していました。そこに色即是空、空即是色の一句が飛び込んできたのです。

その時の感想は『なんだ釈迦も同じことを考えていたのか』です。それから禅書を探し、『柳は緑、花は紅』の句を見つければ『柳は緑ならず、花は紅ならず』もあるだろうと探すとやはり有り、勝手に『魚は飛んで魚の如く、鳥は泳いで鳥の如く』などの句作ったりしましたが、これも禅句に有りました。従って、禅の本は買いましたけど、隅から隅まで読んでいません。

最近は、分子生物学者の女性が、新般若心経を作ったりしています。原子物理、分子生物学、大脳生理学、人工頭脳、意味論、皆根本原理を考えなければならない学問です。。ここら辺の研究者が仏教真理に一番近い存在でしょうか。それでも『色即是空』だけで留まる人、『空即是色』まで行く人はいるかと思いますが、『羯諦羯諦・・』まで行く人は少ないでしょう。やはり釈迦は偉大です。

と言うのも空。と言うのも空。・・


>特に、あの時代、、、。
現代人は、忙しすぎます。windows,linux,execl,java,C、こんなの覚えても50年後に通用するとは思いません。じっくり考える時間が必要でしょう。

>ところで、日本の白隠禅師の書物もずいぶん読みました。
片手の無声の音上。私はうっちゃっています。

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