http://kojoryoshu83.edoblog.net/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%AB%E4%B8%BB%E7%BE%A9/%E7%8C%9B%E5%A8%81%E3%82%92%E6%8C%AF%E3%82%8B%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%8D%E3%82%B9猛威を振るポリテカル・コネクトネス
ポリテカル・コネクトネスは、差別・偏見を防ぐ目的の表現を指す言葉だと言うが、これは共産主義者であるフランクフルト学派が仕掛けている文化破壊工作の一つである。
ポリテカル・コネクトネスは文化革命と同様、実質言論弾圧活動である。その工作活動に従事している人間はその目的を知らず、これも文化革命時の紅衛兵と同く只洗脳されやすい馬鹿者が殆どだと思われるが、今や世界で猛威を奮っており、これからの社会に与える被害は計り知れないことになると思われる。現在の処、その被害が大きいのはアメリカである。
その例であるが、最近読んだエドーワード・ルトワックの『中国4.0(暴発する中国)』)の中に、ルトワックがイラク侵攻の際に、アメリカの対外政策を議論する会合で、イラクには宗派も人種も違うアラブ人、クルド人、トルクメン人がおり、同じ宗派でも分裂して殺しあっている現状を説明した処、突然ルトワックの発言を遮って「ルトワック氏はイラク国民には民主制は無理だとおっしゃってるのでしょうか?」と聞いてきた者がいた。ルトワックが「その通りです」と答えると、その者は「ルトワック氏は人種差別者です!、私は同じ席で人種差別主義者と議論することを拒否します」と言ってきたのである。
その後のやりとりでも、その者はルトワックの言質を捕らえ、ルトワックは人種差別主義者と断定する。ルトワックは「『人種差別主義者だ』というレッテル貼りのおかげで、このやりとりを聴いていた人々は、私の意見に賛同できなくなってしまった」と書いている。
ルトワックが反論出来ないのも情けないが、周りの人間もレッテル貼りに影響されるのも情け無い。アメリカは自由の国を標榜しているが、小説『緋文字』に見られるように、元々原理主義で魔女狩りに近い事を行うような国である。その土壌の上に今はポリテカル・コネクトネスである。現在のアメリカはさらに言論の自由が無くなったと思われる。
EUも同じである。EU諸国が移民によるテロや犯罪率増加に対処出来ないのも、ポリテカル・コネクトネスによる言論封殺の結果だと考えられる。日本も百田尚樹の講演が中止に追い込まれるなど似たような状況になりつつあるが、日本のインターネットの世界を見る限では、言論封殺やレッテル貼りを批判する意見が大勢を占めているようなので、多少まともに見える。
それにしても、左翼も左翼に左右される人間は、レッテル貼りで思考停止してしまう傾向にある。左翼に限って思想々と煩いが、左翼の思想はレッテル貼りだけである。その一例がこれである。
その箇所は、朝まで生TVでケントギルバートと護憲派の弁護士伊藤真が楽屋で大喧嘩したところであるが、原因は伊藤真が安保法案の事を「これは戦争法案だ」と言った事である。「正式な名称が有るのに何故別の名称を言うのか?、弁護士なら正式な名称を言え」がケントギルバートの怒った理由である。果たして伊藤真は「これは戦争法案だ」と言った意見に意味が有ると思っているのだろうか。只レッテルを貼り変えて自分が納得しているだけではないか。
もっともレッテルを貼り変えて納得しまうのは左翼だけでは無い。全ての思想はレッテルを貼り変えることなのである。左翼が思想々と煩いのは、元々左翼は欧米人に劣等感を持ち、その欧米人が思想々と煩いからである。特に共産主義思想に代表されるユダヤ人は思想に煩いのである。
これについて仲間の青年に 「ユダヤ人が共産主義思想を生んだのは、彼らは言葉を信仰しているからである。言葉なんぞは他人との情報伝達の道具である。それを思想々と言っているのは、言葉を崇め奉っている言葉の奴隷ではないか」と説明した処、「田中英道さんが言葉は事の葉っぱ(即ち重要なのは事であり、言葉は端くれ)だと書いていました言われた。
件の青年は、田中英道の「日本人にリベラリズムは必要ない」を読み終えたところ、こちらはちょうど買ったところであった。どちらも目的の本が無かったので、たまたま買ったのであるが、読んだ感想は田中英道が私と全くおなじ考えであることが分った。
それは、ポリテカル・コネクトネスがフランクフルト学派の共産主義思想であり、共産主義思想は言葉に絶対的価値をおく宗教から生まれた、と言うことである。当然キリスト教も同じである。旧約聖書に「始めに言葉あり」と書いてあるが、言葉は絶対的な神より先に存在しているのである。そしてその言葉への追求は無しである。従って欧米人がレッテルを貼りで思考停止してしまい、物を言えなくなるは宗教的背景と言えるだろう。
それに対して日本は新道には教義は無い。言葉を絶対的のものとして扱っていない。古事記に宇宙開闢等の話は出てくるが、言葉は混沌とした様を言い表すのに使われているだけである。さらに後から入った仏教は、言葉そのものを追求した宗教である。その結論は空、無であり、もはや是は何々であるの言葉を超越しているのである。禅が不立文字の所以がそれである。日本では、言葉は正しい目的の為に使われているといえるだろう。但し左翼以外。
田中英道の言わんとしている事は、当ブログ記事『
共産主義は人類共通の敵』の中の『11、欧米社会は未熟、日本の手本にはならない』で「言葉狩りをする共産主義者が誘惑する自由は束縛でしかない」や「日本人は欧米人より自由なのである」とか、『12、日本の生き方が世界を救う』で「釈迦以降、哲学も思想も不要になったのだ」と書いたと同じである。まさに「日本人にリベラリズムは必要がない」である。
思想とはレッテル貼りであり、別の言葉の置き換えに過ぎない。そういうと「お前さんのその言葉も、言葉の置き換えに過ぎない」という御仁が出てくるかも知れないが、「何だ、臭い溝から出たのかと思ったら、また入りに来たのか」と先にお返しをしておく。
ついでに臨済録(朝比奈宗源訳)に出てきた話を載せておこう。
・修行僧たちは、名前や言句に執らわれ、凡夫とか仏かの概念にひっかかり、その心眼をくらまされて悟ることが出来ない。お経すら薬の効能書きにすぎぬのだ。
・お前たちよ、世間には修行すべき仏道があり、悟るべき法があるなどと説くものがいるが、一体どんな法を悟りどんな修行をしようというのか。
・わし(臨在)は幾通りもの衣装を着て見せる。すると修行僧たちは、その衣装、即ち言句についてまわり、ああかこうかと推量する。めくら坊主共だ。そこでそれらに衣装を脱ぎ捨てて、本来無一物の境界に入れば、修行僧たちは、これは尊い、これこそ我々が求めたところだと喜ぶ。わしがさらにそれも脱ぎ捨てると、修行僧たちは肝をつぶし、うろたえてわしに衣装が無いと言う。
さらに臭みに嵌りたい人は臨済録(タチバナ教養文庫)を買ってね。
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